第136話 告白の答えと、月夜の遊歩道
ムンバイでの同居生活も残り八日。
コウさんは、明後日、東京の実家へと戻ると聞いている。私の今後の予定について、彼から尋ねられることはなかった。
時折、何かを言いたそうな視線や雰囲気を感じるものの、私からもその話題に触れることはしなかった。
一緒に食卓を囲み、三日に一度ほどスーパーへ買い出しに行く。カフェへ出かける日もあれば、外へ食事に行く日もある。取り留めのない会話を重ねながら、それでいて、お互いに肝心なことには触れずに過ごしていた。
コウさんの帰国を二日後に控えた夜。私たちは、お気に入りのインド料理レストランを訪れていた。
コウさんがいつも頼むアルコールではなく、『Chaas チャーズ』を選んだのを見て、私はふと思った。――彼は、今夜、答えを聞くつもりなんだ。
無脂肪ヨーグルトドリンクの『Indian Buttermilk Chaas チャーズ』に、ジャガイモとインゲンの『Sabzi サブジ』、『Matar Paneer マタル・パニール』、マタルはグリーンピース、パニールはインドのチーズで、玉ねぎとトマトのグレイビーにグリーンピースとパニールの入ったカレー。『ダルフライ Dal Fry』、茹でたレンズ豆やスプリットピーを、スパイスや香味野菜と一緒にギーや油で炒め煮。そして、『チキンカレー』を注文する。
香ばしいチャパティやスパイシーな料理が並ぶテーブルで、コウさんが静かに口火を切った。
「すみれさん、そろそろ答えを聞いてもいいのかな? さすがに、俺も不安なんだよね」
表情は、いつもの笑顔なのに、その目の奥が不安そうに揺れていた。
「……はい。私、やっぱり、婚約破棄からまだ二ヶ月ちょっとで、新たに誰かとお付き合いするのは抵抗があります。婚約者だった彼を忘れられないとか、そういうことではなくて、どうしても抵抗があるんです」
「……そう」
「すみません」
「いや、謝らないで。仕方ないっていうか、まあ、そうかなとは感じてたからさ」
「え?」
「だって、そりゃそうでしょ。二人きりで三週間近く暮らしてきたんだよ。さすがにわかるでしょ」
「……」
「俺に好意を持ってもらえてたらさ、なんか、こう、甘い雰囲気になったりするもんじゃない? でも、ずっと、ただのルームメイトだったもんね」
「すみません」
「ふっ。俺、かっこわる。いや、文句を言ってるわけじゃないんだ。ただ、振られたのかなってさ……諦めきれないんだよね」
「振ったわけでは……」
「……だって、告白は受けてくれないんでしょ」
「……はい」
「じゃあ、やっぱり振られてるじゃん」
「いや、振ったわけではないです! ただ、自分の気持ちがまだ新しい恋を始める状態ではないっていうだけで……」
「ふっ。ごめん、未練がましかったね」
そう言うと、コウさんはチャーズを一口飲んだ。
「それで、すみれさんは、明後日、どうするの?」
「あ、はい。コウさんが帰国する日に、香港へ向かおうと思っています」
「……香港? どうしてか聞いてもいい?」
「はい。シンガポールのカプセルホテルで偶然一緒になった人が香港から来ていたんです。ずっと連絡を取り合っていて、その人のお宅にお世話になる予定です」
「へえ。……信用できる相手? 女性……だよね? いや、鬱陶しいね。ごめん。忘れて」
「いえ、ご心配ありがとうございます。SEをしている二十五歳の女性で、ご家族と一緒に暮らしているんだそうです。それに、香港は昔、家族旅行で行ったことがあって、好きな街なんです」
「そう。……寂しいな。もう、すみれさんの手料理が食べられないのか……。だったら、今晩も家で食べたらよかったな」
コウさんが、どこか拗ねたような、それでいて隠しきれない寂しさを滲ませた声で呟いた。
それから彼は、私のことを全く見てくれなくなった。
店内を照らす柔らかな灯りの下、少し残してしまった料理を片付け、私たちは店を後にした。
夜の遊歩道は、昼間の喧騒が嘘のように静かで、家族連れやカップルが食後の散歩をしている。街灯がぽつぽつと照らす遊歩道を、ふたり並んで月光を浴びながらコンドミニアムへと歩いた。
並んで歩く影が、伸びては重なる。
その時、突然コウさんが足を止めた。
数歩先で私が振り返り、「どうかしましたか?」と声をかける。
青白い月明かりと、温かい街灯の下で立ち尽くすコウさんは、どこか緊張したような、見たこともない真剣な表情をしていた。
彼が一歩踏み出し、向き合う姿勢になった私の両肩にそっと手を置く。
次の瞬間、ぐっと強い力で体を引き寄せられた。
「……っ」
急に強い力で抱きしめられ、逞しい胸に当たった頬からコウさんの体温とムスクの香りに息を飲む。どうしたらいいのか分からず、私はただ腕の中で身を固くすることしかできなかった。
周囲から好奇の混じった視線を向けられ、通り過ぎていく。
耳元で聴こえるコウさんの囁き声は、いつもの軽やかで優しい彼とは違い、掠れて震えていた。
「ごめん。でも、家に帰ったら……もう、抱きしめたりしないから。今だけ。今だけ許して」
「……コウさん」
「好きなんだ。本当に、好き。……一緒に暮らし始めて、もっと好きになった。だから、今だけ、ごめん」
頭上で響く切ない声と背中に回された手の温もりに、私の胸もキュッと締めつけられるようだった。
私は、彼を抱きしめ返すこともできず、ただその腕の中で、彼の震えが落ち着くのを待つことしかできなかった。
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