第135話 二人の夜と、香港への思い
夜九時少し前、静かな玄関からカチャリと鍵の開く音が響いた。マイクさんのフライトを見届けて、コウさんが帰ってきたのだ。
「ただいまー」
「お帰りなさい。マイクさんのフライトは、時間通りに飛び立ちましたか?」
リビングから出迎えた私に、コウさんは手に持った紙袋を嬉しそうに掲げてみせた。
「うん。無事に飛び立ったよ。すみれさんにも『よろしく』って言ってたよ。……あ、これ、空港で美味しそうだったからドーナツ買ってきたよ。この時間からだと、太っちゃうかな?」
そう言って少し悪戯っぽく微笑む彼に、私も思わず表情が緩んでしまう。
「ふふ、そんなことないです。夜ですし……ハーブティーをいれますね。せっかくですし、一緒に食べませんか?」
「うん、ありがとう」
私たちはリビングのソファへと移動した。
温かいハーブティーを淹れ、ドーナツをボックスから取り出しながら、私たちはマイクさんについて話した。
「まあ、トランジットが一度あるから、マイクも長いフライトだよ」
「そうですね。乗り継ぎがあると、やっぱり時間がかかりますよね。直行便がある都市の方が便利ですね」
「うん、そうだね。まあ、これでもムンバイは大都市だから、いろんなところに飛べるけどね」
「はい。ムンバイは大都市ですもんね」
「そうだね。だから、インドで長期滞在するならムンバイがいいかなって」
「……前から、聞いてみたかったんですけど。コウさんは、どうしてインドで暮らしているんですか?」
「うーん、俺、あんまり『日本に住む』とか『海外に住む』とか、そういう感覚がないんだよね。大学時代にボストンに留学して、世界中から来てた学友たちと、バケーションの時期には中南米とか、いろんなところを旅してたしさ。マイクともカナダを旅したなあ。まあ、お金と英語があれば、だいたいなんとかなるしね」
ドーナツを食べながら話すコウさんは、どこか学生時代を懐かしむような優しい遠い目をしている。
「株式投資だって、ネットがあれば世界中どこにいてもできるしさ。今は、本当に場所に縛られずに生きられる時代だと思うよ」
「じゃあ、ご家族は?」
「両親も姉貴の家族も東京だから日本に帰ることもあるし、別に日本と縁がなくなったわけじゃないよ」
「じゃあ、どうしてムンバイに?」
「昔からの知り合いがこっちにいてさ。最初は、その人を頼って来たんだよ」
「そうなんですね」
「仕事さえできれば、俺はどこにいてもそんなに変わらないんだよ。だったら、面白い場所に住んだほうがいいじゃん」
コウさんはそう言って、ハーブティーを一口含んだ。
世界を自由に軽やかに旅する彼の生き方は、これまでは東京で暮らしていた私の目には、眩しいくらいに自由に映る。
「すみれさんは? 今はアジアを旅しているけど、二ヶ月ちょっと経って、どんな感じかな? 旅のきっかけがきっかけだけど……楽しめてるのかな?」
ふいに振られた問いかけに、私はカップを包んでいた手に少しだけ力を込めた。
「そう……ですね」
最初は、傷ついた心から逃げ出すように飛び出した旅だった。
あんなに辛かった婚約破棄の心の痛みが、アジアの喧騒や新しい景色に触れるうちに、少しずつ癒されていくのを感じていた。
「最初は、ただ必死で……過去を忘れることしか考えられなかったんです。でも、いろんな場所に行って、いろんな人に出会って……今は、旅に出て本当に良かったと思っています」
そこまで言って、私は隣に座るコウさんの顔をそっと伺い見た。
「それに……旅先でナナちゃんに同行して、コウさんとお会いできて。私、すごく救われているんですよ」
照れくさそうに笑ってみせると、コウさんは一瞬目を見開き、それからどこか温かい目をして優しく微笑んだ。
「そっか。それなら、良かった」
夜の深まりとともに、二人の間の距離がまたひとつ、自然に縮まっていくのを感じていた。
二人の間に、どこか甘く静かな沈黙が流れる。
お互いにドーナツを一つ食べ終えたところで、コウさんが残りの箱をパタンと閉じた。
「夜眠る前に、これ以上食べたら太っちゃうな」
「ふふ、そうですね。美味しすぎて、ついつい誘惑に負けそうになります」
「続きは明日にしよう。じゃあ、そろそろ休もうか」
「はい。ごちそうさまでした」
カップを片付け、テーブルの上を整える。
マイクさんの帰った寂しさは消え、胸の奥にじんわりとした温かさだけが残っていた。
「それじゃ、おやすみなさい、すみれさん」
「おやすみなさい、コウさん」
それぞれの部屋へと引き上げ、ドアを静かに閉める。
一人になった暗い部屋で、私はベッドに横たわりながら、今日交わした言葉の数々をそっと反芻した。コウの軽やかで自由な生き方と、自分に向けられた優しい眼差し。その余韻に包まれながら、静かに目を閉じた。
◇
お試し期間も、残すところあと一週間となったが、私は、心の中ですでに香港へ向かうことを決めていた。
日本を飛び出した翌日にシンガポールで知り合ったジュリアにも会ってみたい。
彼女と会った頃から二ヶ月が経ち、当時とは違い、少しは元気になった姿で彼女に会いたかった。
ただ、その前に、コウさんにはきちんと話しておかなければならない。
お試し期間が終われば、私はコウさんの告白に答えることになる。
だからこそ、曖昧なまま旅に出るのではなく、自分の正直な気持ちを伝えたいと思っていた。
コウさんがどう受け止めるかは分からない。それでも、自分の気持ちを誤魔化したくはなかった。
――そろそろ、話そう。そう思いながら、私はコウさんに話すタイミングを見計らっていた。
香港へ行くことを決めた私は、ジュリアにWhatsAppで連絡を入れた。香港で少しだけでも会いたいと伝えると、ジュリアはすぐに歓迎してくれた。
“Hotels are so expensive. If you don’t mind staying somewhere a little cramped, you’re welcome to stay at my place.”
『ホテル代は高すぎるから、狭くても構わなければ、うちに泊まればいいわよ』
画面に表示された温かいメッセージに、私はありがたくお言葉に甘えることにした。
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