第134話 まだ見たい景色がある
WhatsAppを使って、シンガポールのカプセルホテルで出会ったジュリアとの交流は続いていた。
香港でSEとして働く彼女は、大ファンだというロックバンドのワールドツアーで、シンガポールを訪れていた。
香港は、小学生の頃に家族と旅行した楽しい思い出の地だ。
今回の婚約破棄騒動で、『予定通りの健一との結婚』を願う両親とは、十分な話し合いの時間も持たずに日本を飛び出してしまった。
それでも家族であることに変わりはない。両親が今も私を心配してくれていることも、ちゃんとわかっている。
マレーシアのクアラルンプールから絵葉書を送ってからは、時々、母のInstagramのユーザーネームでコメントが書き込まれるようになった。
『美味しそうなお料理ですね。体調を崩さないようにちゃんと食べることが大切ですよ』
『綺麗な景色ですね。素敵な思い出が増えることを願っています』
お母さんらしいコメントに、ホッとするのも事実だった。
大学二年の頃から健一と付き合い始めて、社会人になっても交際は続いたが、健一を『付き合っている人』として両親にきちんと紹介したのは、二十五歳頃だっただろうか。
『すみれ、結婚は考えているの? 二十五歳なんだから、誰かお付き合いしている方がいるんだったら、一度、紹介してちょうだい。心配だわ』
そう言う母の言葉を受けて、健一との『結婚』を望んでいた私は、どこか緊張しながら彼にその話をした。
すると「じゃあ、一度ご挨拶に伺うよ。結婚はまだ考えられないけど、お付き合いはしてるわけだからさ」。あっさりと、そう返されて、ホッとしたような、嬉しいような気持ちで
健一を両親に紹介することになった。
両親から見た健一は、大手ゼネコンに勤める将来有望な好青年だった。長身で爽やかな顔立ちをしており、きっと女性にも不自由しないだろうと思わせるほどの男前でもある。
『健一君は、すみれとの結婚は考えているのかな?』
父からそう問われると、健一は、
『はい。具体的にいつとはお答えできませんが、結婚するとしたら相手はすみれさんだと思っています』……そう答えてくれた。
隣に座る娘の嬉しそうな顔を見て、両親の表情からも心配は消えたように見えた。
それから三年後、健一からプロポーズを受け、正式に婚約することになった。
結婚式の一年前には同棲も始まり、互いに働く者同士、週末を利用して四人で温泉旅行をするほど、両家の関係も良好だった。
すみれが健一との将来を信じていたように、両親にとっても、健一はすでに義理の息子であったのだろう。だからこそ、『一度くらい寛大な心で許してやるのが、人としての度量というものじゃないか』なんて言葉が出たのだと今なら、あの時の両親の気持ちも理解できるようになってきた。
(それでも、許せはしないけどね……。そもそも、一度じゃないしね)
浮気に気がついた『あの日』から、二ヶ月が経った。
時間の経過と人との出会いが、私のグチャグチャだった心を落ち着かせてくれたと思う。
◇
コウさんから告白されてから、私は以前よりも彼のことを意識するようになっていた。
もちろん、コウさんが私に返事を急かしたことは一度もない。むしろ、いつも私の気持ちを尊重してくれている。だからこそ、『六月いっぱい一緒に過ごしてみませんか』と提案できた。
それでも――同じ家で暮らしていると、ふとした瞬間に思ってしまう。
(……私、いつまでもこのままでいいのかな)
朝、顔を合わせる。一緒に食事をする。何気ない話をして笑う。
そんな穏やかな時間を過ごすうちに、コウさんの存在が、少しずつ私の中で大きくなっていることに気づいた。
だからこそ、少しだけ離れてみたいと思った。
決して、コウさんから逃げたいわけじゃない。告白の返事を先延ばしにしたいわけでもない。
ただ、コウさんに選ばれたから、その隣にいるのではなく、自分が本当にどうしたいのか、自分自身で確かめたかった。
だって、私はまだ旅の途中なのだ。
健一との結婚がなくなったからといって、私の人生までそこで終わったわけじゃない。
傷ついて、日本を飛び出したことから始まった旅だけど、今はもう、行きたい場所がある。会いたい人がいる。見てみたい景色がある。
その一つが、香港だった。
シンガポールのカプセルホテルで出会ったジュリア。
あの頃の私は、健一とのことを引きずったまま、悲しみと旅への不安を抱えていた。そんな旅の最初の地で出会ったのが、ジュリアだった。短い時間を一緒に過ごしただけなのに、不思議と気の合った優しい女性。
せっかく旅をしているのだから、今度は私から彼女を訪ねてみたい。
そして。
(香港に行って、それでもコウさんに会いたいと思うのかな)
そんなことを考えている自分に気づいて、私は少しだけ戸惑った。
もしかしたら、もう自分の気持ちは決まっているのかもしれない。
でも、焦って答えを出したくはなかった。自分が本当にどうしたいのか、もう少し自分で考えてみたかった。
そのためにも、もう少し旅を続けたいという気持ちを、コウさんにはきちんと伝えよう。そう決めた私は、香港行きのフライトを検索し始めた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




