第129話 非日常が、日常に変わる頃
それから数日が過ぎ――コウさんと二人きりの生活も、二週目を迎えた夕食中、コウさんから尋ねられた。
「すみれさん、実は来週末、一晩だけ、うちに泊めたいやつがいるんだけど……いいかな? もちろん気も使うだろうし、嫌だったら正直に言って。あいつはホテルに泊まっても全然大丈夫だからさ」
「えっと、どんな方ですか?」
「ああ、俺が『Massachusetts, Boston マサチューセッツ州ボストン』に留学してた時のイギリス人のルームメイトなんだ。マイク・デイビスっていう俺と同い年の二十七歳で、今は『New Zealand ニュージーランド』の『Christchurch クライストチャーチ』で弁護士をしてる。休暇で彼女と『Indonesia インドネシア』の『Bali バリ島』に滞在する予定なんだけど、そのついでに『久しぶりに会おう』って話になったんだよ」
「そうなんですね。留学以来の再会ですか?」
「いや、年に一回はどこかで会ってるかな。去年は東京で会ったし、一昨年はシドニーで会った。普段もビデオ通話でよく話してるんだけど、それでも年に一回は直接会っちゃうんだよね」
「よっぽど気が合うお友達なんですね。私は全然構いませんよ。どうぞお気遣いなく。彼女さんもご一緒ですか?」
「いや、彼女とはバリ島で合流するらしいんだ。マイク一人で、クライストチャーチからシンガポール経由でムンバイに来るんだ。夕方には着く予定だから、そのままうちに連れてくるよ。二泊だけだけど、よろしくお願いします。あいつは空気も距離感も読めるやつだから、大丈夫だと思うんだけど」
「はい。お食事はどうされますか?」
「外で食べるから、気にしないで大丈夫。ただ、夜に二人で飲みながらダラダラ喋ると思うから、少しうるさくしちゃうかもしれない。それだけごめんね」
「ふふ、構いませんよ。私は自分の部屋にいますから、どうぞ気にしないで楽しんでください」
「うん、ありがとう」
◇
それからも私たちは穏やかな日常を過ごしていた。朝昼晩の食事を一緒に食べ、近所のスーパーへ食材の買い出しに行き、コウさんが動画の編集に集中している傍らで私は手芸をする。
時折、コウさんの提案で気分転換に街へ出かけることもあった。
二日前には、車で五十分ほどの、フォート地区の北側に位置する『Mumbadevi Temple ムンバーデーヴィー寺院』を訪れた。
そこは下町情緒のあふれる賑やかな場所で、ムンバイ市民に古くから愛されているヒンドゥー教寺院だ。「Mumba Aai ムンバディ」という女神を祀っており、この女神の名が「Mumbai ムンバイ」という街の由来になったのだと、コウさんが教えてくれた。
カラフルに塗装された仏塔門の細かい装飾を見上げながら、大勢の信者や観光客に混ざって二人で祈りを捧げる。どこか懐かしく温かいその場所で、コウさんは私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。旅先で甘やかしてくれる『素敵な年下男性』だ。
すぐ近くには、アジア最大級の宝飾品市場と言われる『Zaveri Bazaar ザヴェリ・バザール』へも足を伸ばした。
インド全土の金取引の約六十五パーセントがここから始まると言われている通り、迷路のように入り組んだ狭い路地には、伝統的な技法のジュエリーを扱う老舗から地金の精錬所まで、数千もの店がひしめき合っている。眩いばかりの金銀宝石の輝きに圧倒されながら二人で歩いた。
店先に色鮮やかなアンティークリングが並んでいるのを、私は何気なく眺めていた。
その時、その中のひとつに目を奪われた。深みのある鮮やかな青緑色の石。私の誕生日である五月十日の誕生石、トルコ石に似た、美しい小さな指輪だった。
『すみれさん、それ気になります? つけてみたら』
コウさんに促され、試しに右手の薬指にはめてみた。繊細な装飾が施された銀色の台座に、青緑の石が控えめに光を反射して、とても素敵だった。
『すごく綺麗……。でも、見るだけで十分です』
買いに来たわけではないからと、私はすぐに指輪を外し、店主にお礼を言って店を後にした。その後は、少し離れた露店に並ぶ色鮮やかなネックレスに気を取られ、いつしか先ほどの指輪のことも忘れてしまっていた。
楽しい日帰り観光を終え、自宅へ戻り、簡単な食事を作って一緒に食べる。そんな普通の時間を共有していた。
◇
マイクがやってくる前夜。コウは自分の部屋でノートパソコンを開き、日本にいる片山と画面越しにビデオ通話をしていた。
「――で? 二人きりの生活も二週間近いけど、何か進展はあったのか?」
画面の向こうでビール缶を傾けながら、片山がニヤニヤと尋ねてくる。
コウは椅子の背もたれに体を預け、深々とため息をついた。
「……あるわけないだろ。なんかさ、全然色っぽい展開とかないんだよ。正直、どうしたらいいのか分からない状態だな。友達とは違うし、もちろん家族でもないんだけど……なんだか不思議な『均衡状態』になっちゃっててさ」
「へえ、いいじゃん。お前が変に迫って撃沈してない証拠だな」
「笑い事じゃないって。……正直、焦るよ。すみれさんは毎日すごく自然に笑ってくれるし、一緒にスーパーに行って買い出しして、彼女の作ってくれた食事を食べて……その時間がめちゃくちゃ愛おしくて、ずっとこのまま一緒に生活できたらいいなって本気で思ってる。でもさ」
コウは膝の上で拳をギュッと握りしめた。
「すみれさんが楽しそうにしてくれればしてくれるほど、不安になるんだよ。『これって、ただの都合のいい居心地の良さなんじゃないか』って。九年間っていう月日はさ、やっぱりデカいよ。俺は……ただすみれさんの傷を一時的に埋めるだけの存在で終わるんじゃないか、とかさ。……たまに考えて、勝手に『元婚約者』に勝てない気になってる」
「コウ……」
「ヒロシ。俺、すみれさんには絶対に幸せになってほしいんだ。もし、三週間経って出た答えが『俺じゃない』としても……それを受け止める覚悟はできてる。でも、やっぱり……諦めたくねぇな」
画面の向こうで、片山が少しだけ目元を緩め、温かい眼差しでコウを見つめた。
「お前、本当にカッコいいな。……焦るなよ、コウ。すみれさんはちゃんとお前のことを見つめてるからさ」
その頃。すみれは自分の部屋で、静かにInstagramを開いていた。
二人きりの生活も二週間が過ぎようとしている。最初の頃に感じていた、『旅先で優しくしてくれる素敵な年下男性』という非日常の印象は、いつの間にか少しずつ形を変えていた。
動画の編集が行き詰まって髪をボサボサにしながら頭を抱える姿。
疲れてソファで子供のように寝落ちしている無防備な寝顔。
意見が食い違った時に、誤魔化さず真っ直ぐ真剣な目で話し合おうとしてくれる姿勢。
現地の人やお店のスタッフに対する、おおらかで優しい態度。
(……私、コウさんの『かっこいいところ』だけじゃなくて、人間くさいところも、結構知っていってるんだ)
かつて九年間付き合った健一との思い出が、完全に消えたわけではない。ふとした瞬間に過去の傷が疼く。
けれど、一ヶ月前のような、息もできないほどの苦しさや、激しい感情に飲み込まれることはなくなっていた。
(健一と過ごした九年間は、私の過去。それは変わらないけれど……)
すみれは目をつぶって、胸に手を当てた。
(私は……『日常のコウさん』そのものを、もっと知りたいと思っているのかもしれない)
非日常の中で出会った『素敵な男性』としてではない。時には格好悪く、時には不器用で、それでも自分らしく日常を生きる、一人の男性としてのコウさん。
その存在が、私の心の中に少しずつ、けれど確実に存在していた。
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