第128話 覚悟の背中と、穏やかな始まり
「片山さん……。実は私、ずっと考えていることがあって。相談に乗ってもらってもいいですか?」
「もちろん。僕でよければ」
「……私、コウさんのことを好きになってしまっても、いいんでしょうか?」
「……」
片山さんは少し驚いたように目を見開き、カップを持った手を止めた。
「……それ、僕に聞くことなのかな?」
「すみません。でも、分からないんです。自分でも……」
「うん」
「まだ、婚約者だった彼と別れて一ヶ月しか経っていません。なのに……コウさんといると安心してしまって。コウさんに好意を向けていただいて、嬉しいと思っている自分がいるんです」
「うん」
「でも……それが本当に恋なのか、それとも、傷ついたばかりで優しくしてくれる人に心が傾いているだけなのか……自分でも自分の気持ちが分からなくて」
胸の奥で渦巻く答えの出ない問いを言葉にして打ち明けると、片山さんは静かにコーヒーカップを置き、少しの間、何かを考えている様子で黙りこんだ。
「すみれさんは、コウと離れたらどうなると思う?」
「……え?」
「例えば、明日コウが僕と一緒に日本に帰って、すみれさんが一人でインドを旅するとしたら。それでも……コウに会いたいと思う?」
「それは……」
口を開かけたものの、言葉が続かなかった。
会いたい気持ちがないわけじゃない。でも、一人に戻る心細さからコウさんに縋りたいだけなのかと問われれば、胸を張って否定する自信もなかった。
すぐに返事ができない私を見て、片山さんは柔らかく目を細めた。
「答えが出ないなら……今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
「え……?」
「『好きかどうか』を決めるんじゃなくてさ。『これからコウと一緒にいたいかどうか』だけを考えてみたら?」
「一緒に……いたいか……」
「そう。九年間の元婚約者との過去を全部消す必要なんてないし、無理に忘れる必要もない。過去を抱えたままでも『コウと一緒にいたいか』。今はそれだけで十分なんじゃないかな。すみれさんは『付き合う』って決めたわけじゃなくて、『自分の気持ちを確かめる時間がほしい』ってコウに伝えたんでしょ?」
「はい……」
「なら、焦って『恋人になる覚悟』なんて決めなくていいんだよ。あいつも、すみれさんに無理をさせたくて想いを伝えたわけじゃないんだから」
片山さんの言葉が、固く強張っていた私の心を、そっと温かく解きほぐしていく。
「片山さん……ありがとうございます。なんだか、少し気持ちが楽になりました」
「はは、それなら良かった。コウの奴、僕がすみれさんを泣かせたと思って殴られたら敵わないからね」
冗談めかして笑う片山さんのおかげで、強張っていた緊張が解けていく。私たちの間には、心地よい温もりが戻っていた。
明日になれば片山さんは帰国し、コウさんと二人きりの時間が始まる。
答えを急ぐ必要はない。傷ついた過去も、消えない痛みも全部抱えたまま――私はコウさんと向き合うための、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
◇
近所のカフェ『kotoha café』から戻ると、すみれは少し疲れた様子で「先に休ませてもらいますね」と寝室へと向かった。
パタンとドアが閉まる音を確認してから、リビングに残ったコウが、待ちきれないといった様子で俺に向き直った。
「……で? どうだった?」
「何が?」
「何がって……すみれさん。俺のこと、なんて言ってた?」
俺は少し笑って、ソファの背もたれに深く身体を預けた。
「お前、ほんと余裕ないな」
「だって気になるだろ。何を話したんだよ!」
「まあ、気持ちは分かるけどさ」
一息ついた俺は、表情を少し真面目なものに切り替えた。
「コウ。残り三週間、絶対に焦るなよ。絶対だぞ」
「……分かってる」
「いや、全然分かってない顔してる。コウ、今日すみれさんと話してきたけど……あの人は、まだ一ヶ月前に受けた傷の中にいるよ」
その言葉に、コウの表情がすっと曇る。
「……ああ」
「でもな、お前のことを嫌だとは思ってない。むしろ逆だと思う」
「……本当に?」
「ただ、それを今すぐ『恋愛感情』として括ろうとするなってことだ」
「……」
「すみれさん自身が、自分の気持ちを確かめたいんだよ。無理に次の恋愛に踏み出すんじゃなくてね」
コウは何かを噛み締めるように「そっか……」と呟き、どこか安堵したような息を漏らした。
「だから、三週間後にどんな答えが出たとしても、ちゃんと受け止めろよ」
「……分かってるよ」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「おい!」
呆れたように肩をすくめると、コウは困ったように苦笑した。俺は立ち上がり、コウの肩を力強く叩いた。
「まあ、俺はお前が幸せになってくれたら嬉しいよ。でもな、すみれさんにも幸せになってほしいんだ。二人とも、誰かのためじゃなく『自分の意思』で決めてほしい。だからプレッシャーをかけずに、選ばせてやれ」
「……ああ。サンキュ、片山」
◇
翌日。片山さんは、一週間前にナナちゃんが帰国したのと同じ便で、日本へ飛び立つ。私とコウさんは空港まで見送りに来ていた。
「じゃあ、すみれさん。お世話になりました。毎日、美味しいご飯が食べれて最高でした。どうぞ、元気でね」
「はい。片山さんも、日本に帰られたらお仕事が大変かと思いますが、お身体に気をつけて頑張ってください」
「うん。でも、正直こっちに残る二人のほうが心配だけどね」
「え?」
「コウ、絶対に張り切りすぎるから」
「ちょっ!お前 聞こえてるんだけど!」
コウさんの抗議に、私と片山さんは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。別れ際の軽いやり取りに、少しだけ淋しさが紛れる。
片山さんはコウさんに向き直ると、最後にピシッと指を指した。
「コウ。あと三週間、焦るなよ」
「分かってるって」
「……すみれさんを、頼んだぞ」
「……ああ。任せてくれ」
そこにあったのは、『好きな女性に自分を選んでもらいたい』という焦りや熱ではなかった。傷ついた私と真っ直ぐ向き合い、この三週間を大切に過ごそうとする、静かで確かな覚悟の表情だった。
「じゃあな! 日本についたら、また、連絡するから」
片山さんは大きく手を振ると、手荷物検査場の中へと消えていった。
こうして、ムンバイのコンドミニアムで――私とコウさん、二人きりの『三週間』が始まった。
変に身構えていた私の予想とは裏腹に、何かが劇的に起こるわけではなかった。
朝起きて二人分の朝食を作り、一緒に食事をし、近所のスーパーへ食材の買い出しに行く。コンドミニアム内のジムに通ったり、カフェに出かけたりしながら毎日が過ぎていく。
コウさんが部屋でリモート会議や、動画の編集をしている間、私は『くまのスミレ』の新しい衣装をちくちくと縫い進める。
夕方には涼しくなり始めた街を一緒に散歩し、夜は二人でテーブルを囲んで「美味しいね」と笑いながら夕飯を食べる。
片山さんが去って一週間が過ぎた頃。
ふとキッチンのシンクでお米を研ぎながら、私は自分の心境の変化に気づいていた。
(あれ……? 私、コウさんと二人きりなのに、全然緊張してない……)
コウさんの隣にいる時間は、息をするのと同じくらい、驚くほど自然で心地よいものになっていた。
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