第125話 女の揺れる心と葛藤、それを包み込む男
「私、結婚をやめようと決めた時……もう一生、誰とも結婚したくないって思ったんです」
私はアイス・アメリカーノのグラスに付いた水滴を指先でなぞりながら、ポツリポツリと独り言のように語り始めた。
「私は別に、結婚するために生きていたわけじゃない。それなのに……式の一ヶ月前、彼に裏切られたと分かった時、自分の九年間全部を否定された気がして、息もできなくなりました。日本に残って、両親に腫れ物扱いされて、職場の同僚や友達に慰められて……Kさんとの思い出が残るあの生活の中で結婚式のキャンセル手続きをするなんて、到底耐えられなかった。だから全部を投げ出して、日本から逃げ出したんです。『戦略的逃避』だなんて言ってましたけど、最初は旅なんて呼べるものじゃなくて、ただの現実逃避でした」
コウさんは何も言葉を挟まず、ただ温かい眼差しで私の言葉を受け止めてくれている。
「でも、旅先で色んな人に出会って、助けられて……『私はこんな風に、もっと自由に生きていいんだ』って、少しずつ自分を取り戻せるようになってきたんです。眠れるようになって、食事の味も少しずつ感じられて、急に叫び出したくなるような衝動も治ってきて……。私は新しい恋を探しに旅に出たわけじゃありません。失った自分を取り戻すための旅だったはずなんです。だから……こんなに早く、彼以外の誰かを好きになるかもしれないなんて、思いもしませんでした」
「すみれさん……」
「コウさんと一緒にいると、Kさんのことを考えずにいられます。何より……自分ひとりで移動しなくていい安心感や、金銭的な不安が解消されるから心地いいのかなって、最初はそう自分に言い訳しようとしました。……でも、違ったんです。私はただ単に……コウさんという人そのものに、惹かれているんだと思います」
胸の奥にずっと閉じ込めていた本音を口にすると、涙が零れそうになった。
「だけど……九年間も付き合って、結婚するはずだった人と別れて、まだたったの一ヶ月です。そんなに早く次の恋をしていいのか……私はそんなに軽い人間だったのかって。あんなに眠れず、食べられず、涙が止まらなくなるほど苦しんでいた当時の自分を、裏切っているような気がしてしまうんです。まだ新しい恋に進む段階じゃないんじゃないかって……」
喉の奥がキュッと締め付けられる。私はコウさんを見つめ、抱え込んでいた葛藤をぶつけた。
「Kさんとの関係を、もっとちゃんと終わらせてから新しい恋愛に進むべきなんじゃないかという思いもあります。それは、よりを戻したいからじゃありません。でも、ちゃんと彼と感情をぶつけ合った末に出せる答えもあったんじゃないか……私はただ、面倒なことから逃げただけなんじゃないかって。でもその反面……今さら話を聞いて何になるんだろう、もう答えの出たことを話し合ったって意味がないっていう思いもある。……その二つの感情が、いまだに私の中でせめぎ合っているんです」
私がすべてを吐き出し、深く息を吐くのを待ってから、コウさんは静かに口を開いた。
「でもさ……恋をするのに、誰かの許可や『正しいステップ』なんて必要なのかな?」
「え……?」
「Kさんとの九年間は、すみれさんにとって間違いなく本物で、嘘じゃなかった。でもね、それと『今、新しく誰かを好きになること』は、全く別のことだと思うんだ」
コウさんはテーブル越しに真剣な瞳で私を見つめ直し、姿勢を正した。
「改めて言わせてほしい。……あなたのことが好きです。前は『すみれさんの準備ができるまで待つ』ってカッコ良い事を言ったけど……待ってたらいけない気がするんだ。だから、もしよかったら、俺と付き合ってください」
「……私、つい一ヶ月前まで、他の人と結婚する予定だったんですよ」
「はい。さっき聞いたので、知っています」
「まだ……彼のことを完全に忘れたわけじゃありません。これからも、ふとした瞬間に思い出してしまうことがあると思います」
「そうだよね。九年も一緒にいたんだから、当たり前だよ」
「嫌……じゃないんですか?」
「嫌じゃないよ」
コウさんは柔らかく微笑むと、包み込むような優しい声で告げた。
「俺と付き合うからって、過去を無理に忘れる必要なんてない。ただ……これから先、彼との思い出よりも、俺と過ごす時間のほうが大切になっていけばいいと思ってる」
過去を消そうとするのではなく、傷ついたままの私をまるごと受け止めてくれる言葉。
(ああ、そうか。コウさんは私を健一から奪おうとしているんじゃなくて、今の私自身を見てくれているんだ)
その温かさに、私の胸の奥で固まっていた冷たい塊が、ゆっくりとけていくのが分かった。
「……ありがとうございます。すごく嬉しいですし、コウさんみたいな素敵な方にそう言っていただけて、本当に光栄だと思っています。……ただ、やっぱり自分の中に罪悪感が残っていて。まだ誰かと付き合うことに、わだかまりを捨てきれないんです。めんどくさい性格でごめんなさい」
「ううん、それも含めてすみれさんなんだから、そんなに謝らないで。……でもさ、俺だって実はかなり不安なんだよね。だから、俺に好意を持ってくれてるってことだけは確認させてもらってもいい?」
「えっ? あ、はい。コウさんは本当に魅力的な方ですし、こうして想いを伝えていただけたことはすごく嬉しいです」
「いやいや、そんな形式ばった面接みたいな返答じゃなくてさ。俺のこと、これから好きになってくれそうかな?」
「……それ、自分で訊いていて恥ずかしくないですか?」
「こっちだって必死なんだよ! ここで格好つけて遠慮してたら、他の誰かが現れちゃうかもしれないじゃん。もしそのタイミングが、すみれさんが新しい恋に踏み出す時だったら、俺完全にアウトでしょ? だから、なりふり構わず攻めさせてもらうよ」
「ふふっ、確かにそうですね。……はい。コウさんのこと、すごく素敵な男性だなと感じています」
コウさんが作ってくれた和やかな雰囲気のおかげで、私は照れくささを抱えつつも、すんなりと今の素直な気持ちを口にすることができていた。
「……あの、この際だから聞かせてください。コウさんは格好良くて、お金持ちで、有名人で……私より二歳も年下ですよね。どうして私なんですか? 今、たまたまインドで一緒にいるからですか?」
「その言い方だと、俺が手っ取り早く近くにいる女性を口説いてる軽い奴みたいに聞こえるんだけど!?」
「あ、すみません! そんなつもりじゃないんです。ただ、本当に分からなくて……どうして私なんだろうって」
「一番は、すみれさんが俺の初恋の人だから。でもそれだけじゃなくて……やっぱり『運命』を感じてるんだ。別にロマンチックなシチュエーションに酔ってるわけじゃないよ。この一週間ほど一緒に過ごしてみて、人間としてのすみれさんにどんどん惹かれてる。だから、ずっと一緒にいたいんだ」
「……そうなんですね」
真っ直ぐに想いを告げられ、胸の奥がじんわりと熱くなる。私は少し考えてから、コウさんの目を見つめた。
「それなら……お試し期間として、六月いっぱい、お世話になってもいいですか? 月末にはコウさんもビザの関係で一度インド国外に出なくちゃいけませんよね。そのタイミングを一区切りにして……六月いっぱい、一緒に過ごしてみませんか? その時に改めて、お互いの気持ちを考えてみたいんです」
私の言葉にコウさんは驚いた表情を浮かべた後、ゆっくりと「わかった」と呟いた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




