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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
ムンバイ編 コウさん宅と、旅の友との別れ

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第124話 コウさんの前で、語る過去

 私はコウさんの目を見て、初めて彼のその不安げに揺れる内面に気づかされた気がした。

 彼のどこまでも誠実な思いに、私も逃げずに正面からぶつかるべきだという思いが湧き上がってくる。


 自分の正直な過去と、今の気持ちをぶつけてみよう。

 健一と暮らしたあの家を出て、旅立つことを決めて……旅先で出会ったナナちゃんに話を聞いてもらい、少しだけ気持ちの整理がついた今なら、コウさんにも過去を話せる気がした。



「あの、まずは自己紹介をありがとうございました。『狭山航』さんについて初めて知れた面もありましたし、何よりコウさんの誠実なお人柄がよくわかりました」


 私はコウさんの目を見つめ返し、彼を安心させるように優しく微笑んだ。それを見て、コウさんの身体からふっと緊張が抜けた気がする。



「それじゃあ、次は私の自己紹介を聞いてもらえますか?」


「えっ……ああ。でも、すみれさんが無理に話す必要はないんだよ? 言いたくないことは無理しなくていいからね」


 どこまでも優しいコウさんの気遣いが胸に沁みる。



「ふふっ。それじゃあアンフェアでしょう。私がコウさんの思い描くような女性ではないかもしれませんよ。だから、聞いてください。私の自己紹介です」


 コウさんは真面目な顔で小さく頷いた。なんだかまるで、入社面接のような不思議な空気感が漂う。



「名前は小川すみれです。五月十日生まれの二十九歳。生まれは東京で、つい一年ほど前までは杉並区の実家で両親と暮らしていました。父は普通の会社員で、母は保育士をしています。一人っ子で、兄弟はいません。コウさんに比べると、本当にごく普通の家庭で育ちました」


 そこで一度、静かに深呼吸をする。


 『終わったこと』は、コウさんが言ってくれた通り、言わずに胸に秘めておくこともできたかもしれない。でも、話さないという選択肢は私にはなかった。なぜなら――その『過去』こそが、いま私がここにいる理由そのものだからだ。



「大学は都内の美大に通っていました。でも、途中で服作りに興味が湧いて、好きなアパレルブランドで働きたいと思うようになりました。『○INK ○OUSE』って、ご存知でしょうか? 大人の女性のためのガーリーなブランドです。それで、美大の授業だけでは服作りの技術が足りないと感じて、三年生の頃からは夜間の服飾専門学校にも通うようになって……。昼は大学、夕方からは専門学校でパタンナーの勉強をして、土日は課題とバイト、という毎日を送っていました。コウさんと偶然言葉を交わしたのは、きっと私の通学途中だったんだと思います」


「そうだったんだ……」


「卒業後は、その憧れだったアパレルブランドに就職して、この五月まで六年間パタンナーとして勤めていました。本社が渋谷にあるので、コウさんが見かけたのは仕事帰りだったのかもしれません」


 徐々に緊張で口の中が乾いてくるのを感じ、私は目の前のアイス・アメリカーノを一口飲んで、ゆっくり息を吐き出した。



「……それと、結婚についてなんですけど」


 私が核心に触れようとしたその瞬間、コウさんが「ちょっと待って!」と慌てて声をあげた。



「あのさ! 言いたくないことは、本当に無理しなくていいんだよ! 自然に話せる時が来たらでいいしさ……っ」


「いえ、大丈夫です。こんな機会もなかなかないので、聞いてください。私もどこまで冷静に話せるのか、まだ自信はないんですけど……コウさんには聞いてほしいんです」


「……うん。わかった。聞かせて……ください」


「はい。上手にお話しできないかもしれませんが……私と、元婚約者の話です」


『元婚約者』という言葉が出た瞬間、コウさんの表情がはっきりと強張った。



「彼のことは、ここでは『Kさん』と呼ばせていただきますね」


「……Kさん」


 コウさんが呟くようにその名を復唱する。



「私とKさんは、大学二年の時に学生サークルで知り合って、お付き合いが始まりました。社会人になってからも交際は続いて、一年前、婚約を機に一緒に暮らし始めて……私の誕生日だった、先月、五月十日に結婚式を挙げる予定だったんです」


『結婚式』『先月』という言葉に、コウさんの顔が激しい動揺で引きつった。何かを言おうと口を開けかけ、それでも途中で飲み込み、じっと耐えるように私の話を聞いてくれている。



「でも……Kさんの浮気に気がついて、挙式一月前に婚約を解消しました。私は会社も辞めて、一人でシンガポールへ旅に出たんです。そこで出会ったマレーシア人の女性に誘われてクアラルンプールへ移動し、彼女の家にお世話になったあと、マラッカでナナちゃんに出会いました。そして彼女に誘われてムンバイを訪れて……偶然、いま、ここにいます」


「ちょっと! ちょっと待って! 情報が多すぎるって……!」


 コウさんは頭を抱え、次に顔を上げた時には、辛そうな表情で私を見つめた。



「まず何より……すみれさん、大丈夫なの!? 俺、そんな辛い過去、無理に話させたくて呼び出したんじゃないのに……っ!」


 まるで自分のことのように心を痛めているように見えるコウさんの姿を見て、私は胸の奥がキュッと締め付けられるような、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。



「あのさ……無理に話さなくていいよって言っておいて、こんなこと聞くのもどうかと思うんだけど……」


 コウさんは目の前のグラスをいじりながら、どこか申し訳なさそうに聞き返してきた。


「その、Kさんとは……ちゃんと話し合ったの? その……なんで浮気なんてしちゃったのか、とか」


「……いいえ。彼の浮気が発覚した翌朝には、荷物をまとめて家を出ましたので……。その後、両親を交えて話し合いの場は持ちましたけど、二人きりで会って話すことはしていません」


「えっ……。Kさんの言い分は聞いてないの? だって、一度は結婚しようとまで思った相手でしょう……? 言い訳でも何でも聞いてから結論を出したって遅くはなかったんじゃ……あっ! 誤解しないでね! そいつが一番のクズだよ! すみれさんっていう素敵な婚約者がいながら、式のひと月前に浮気するなんて最低の男だと思う!」


 コウさんは慌てて手を振ると、真剣な表情で「あくまで第三者の、外からの意見として聞いてほしいんだけど」と前置きしてから、言葉を紡ぎ始めた。



「九年も一緒にいて、婚約してから同棲までして……それだけの時間を重ねてきた相手なら、一度二人きりで腹を割って話してみるべきだったんじゃないかな。二、三発殴っておかないと。逃げるみたいに旅に出て、Kさんの言い訳も聞かないまま終わらせちゃうと……すみれさんの中に『未練』とか『後悔』が残っちゃうんじゃないかって、俺はそれが心配なんだ」


 コウさんの言葉は、どこまでも私を責めるのではなく、私を気遣う優しさに溢れていた。彼なりに私の傷を心配し、過去に囚われないようにと案じてくれているのだと痛いほど分かった。


 けれど――私は静かに首を横に振った。


「コウさん。ご心配ありがとうございます。でも……私にとって、理由を聞く必要は、もうなかったんです」


「……え?」


「『出来心』『魔が差しただけ』『一度だけ』……浮気相手の女性から届いたメッセージを見た時に、彼が咄嗟に口にした言い訳です。……それに、メッセージの履歴を確認して、一度きりじゃないことはわかってたんです。だから、余計に彼が私を裏切ったという事実は変わりません。そして、その言葉を聞いて……私はもう彼を信じられなかったんです」


 自分の声が、驚くほど落ち着いていることに気づく。この一ヶ月は、間違いなく私にとっての『時ぐすり』だった。


「もし、あの場で、心から過ちを認めて誠実に謝ってくれていたら……もしかしたら、違う結果があったのかもしれないなって、何度も想像しました。……本当にこれでよかったのか、今でも迷うことばかりですし、自分の選択に自信があるわけでもありません。でも……当時の私には、事実を突きつけて責め立てる気力も、言い訳を聞く余裕も残っていなかったんです」


 私はアイス・アメリカーノのグラスを見つめ、静かに言葉を紡ぐ。


「一度壊れてしまった九年間の信頼をどう取り戻せばいいのか、当時の私には分かりませんでした。話し合って清算してからじゃないと前に進めないのかもしれない……そう思う自分もいます。でも、あの時の私は、ただ自分の人生を取り戻すためにあの家を出ることで精一杯だったんです」



 私の迷いを含んだ言葉と、それでも誤魔化さずに自分と向き合おうとする静かな眼差しに、コウさんはハッとしたように目を見開いた。


 婚約解消になった私が、ただ悲しみに暮れて逃げ出してきたわけではないこと。傷つき、今なお答えを探して迷いながらも、自分自身の足で立ち、自分の人生を取り戻そうと足掻いていることに、コウさんは初めて気づかされたようだった。



「幻滅されましたか? 婚約者の言い分も聞かず、向き合うことから逃げ出してしまったなんて……心が狭いとお感じになったなら、それも一つのお考えだと思います。ですので……これからも、このまま旅先で出会ったご友人としてお付き合いいただけたら嬉しいです」


 私は逃げずにまっすぐコウさんの目を見つめ、今の自分の精一杯の決意をはっきりと告げた。


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