第122話 和食の買い物と、ざわつく心
翌日、日曜日の朝。私は早めに目を覚まし、キッチンで朝食の準備に取りかかっていた。
お世話になるにあたって滞在費や宿泊費の支払いを申し出たのだが、コウさんからは「いらないよ。気にしないで」とあっさり断られてしまったのだ。
それならせめて家事を引き受けようと申し出たものの、「掃除はハウスキーパーさんが週に二回入ってるから本当に大丈夫」と言われてしまう始末。
だからこそ、せめて食事の準備くらいはさせてほしいと頼み込み、まずは今日の朝食を担当させてもらうことになった。
冷蔵庫の中は、和食とは程遠い、最低限の食材しかない。昨日の朝食はホットサンドだったから、今朝は少し気分を変えてフレンチトーストにしよう。ボウルに卵と牛乳、ほんの少しの砂糖を入れて丁寧に混ぜ合わせる。昨日のホットサンドに使った食パンの残りを厚めに切り、卵液にじっくりと浸した。
フライパンにバターを溶かすと、甘く香ばしい香りがふわりとキッチンいっぱいに広がる。弱火でじっくりと焼き色をつけ、仕上げに、塩コショウと粉チーズを利かせたふわふわのスクランブルエッグを添えた。
「うわ、めっちゃいい匂い……」
目をこすりながら寝起きの髪でリビングに現れたのは、片山さんだった。続いて、コウさんもどこか眠たげな表情で部屋から出てくる。
「すみれさん、おはよう。……もしかして作ってくれたの?」
「おはようございます。簡単なものですけど、フレンチトーストとスクランブルエッグを作ってみました。お口に合うといいんですけど……」
「合うも何も、めちゃくちゃ美味そう! コウ、俺たち毎朝これ食べられるなら、俺、ずっとここに居座りたいね」
「ヒロシ、お前は土曜に帰るんだよ」
コウさんは片山さんを軽くあしらいながらも、ダイニングテーブルに並べられたお皿を見て、心底嬉しそうに目を細めた。
「いただきます。……ん、すごく美味しい。外側はカリッとしてて、中はフワフワだ」
「本当だ、お店のやつよりうまい! すみれさん、料理上手すぎない?」
ふたりが美味しそうに頬張る姿を見て、胸のつかえが少しだけ下りる。
(よかった、喜んでもらえて……)
ホッと安堵する私だったけれど、ふとコウさんと視線が交差した。
『明日の午後、俺に時間をください』
昨夜の彼のまっすぐな言葉と眼差しが脳裏をよぎり、途端に心臓がドクンと大きく跳ね上がった。私は照れくささを隠すように、慌てて自分のコーヒーに手を伸ばした。
「今日はどうする? 午後はカフェに付き合ってもらうとして……。午前中、どこか行きたいところはあるかな? ……うわっ、何この卵、めっちゃふわふわ」
コウさんがスクランブルエッグを美味しそうに頬張りながら、今日の予定を尋ねてくれた。
「えっと、できればなんですけど……今日の夜は和食を作りたいなと思っていて。あまり価格が高いお店だと困るんですけど、地元のスーパーマーケットを見てみたいです」
私の言葉に、片山さんが待ってましたと言わんばかりに嬉しそうな声をあげた。
「えっ、和食!? 賛成、大賛成! 食材費は気にしないでいいから、どんどん買い物してきてほしいな。もうずっと、美味しい和食が恋しかったんだよ」
「ああ、スーパーマーケットか。それなら近くの『Nature’s Basket ネーチャーズ・バスケット』で日本食材が手に入ると思うから、そこに行こうか。アプリで注文すると割引もあるけど、まずは見てみたいでしょ。散歩がてら歩いて行って、買い物の量によっては帰りはタクシーを使おう」
「はい! この一ヶ月くらいちゃんと料理ができていなかったので、すごく楽しみです」
「へえ、すみれさんは料理が好きなんだね。ちなみに得意料理は何?」
「……定番なんですけど、肉じゃがとか、餃子や煮込みハンバーグでしょうか。基本的にはレシピさえあれば、何でも作ってみたくなっちゃうんです」
「わお、最高じゃない! 今晩は和食決定だね! コウ、すみれさんの希望する食材、全部しっかり買ってこいよ!」
片山さんがテンション高くコウさんの背中をバシバシと叩く。
「言われなくても買うよ。ただ、牛肉はないから、肉じゃがを作るなら鶏肉かな。……すみれさん、食後に準備して出かけようか」
「はい、よろしくお願いします」
コウさんは優しく微笑んでくれたけれど、ふと目が合った瞬間の静かな熱に、私の胸はまた小さく跳ね上がった。
(午後は、カフェでふたりきり……)
片山さんが賑やかにフレンチトーストをおかわりする横で、私は午後の約束を思って、密かに緊張に身を硬くしていた。
食後の片付けを済ませると、私とコウさんは徒歩でスーパーマーケットへと向かった。
午前十時、気温は二十九度。照りつける太陽の下、綺麗に整備された遊歩道を二人で二十分ほど歩いていく。並んで歩くコウさんとの距離が少し近く感じるたびに、昨夜の「明日の午後、時間をください」という言葉が頭をよぎり、胸の奥がキュッと締め付けられた。
到着したスーパーマーケット『Nature’s Basket』の自動ドアをくぐると、店内は清潔感に溢れ、色鮮やかな野菜や果物、世界各国の輸入食材が美しくディスプレイされていた。
「こんなことを言ったら失礼ですけど、雰囲気は日本のスーパーとあまり変わりませんね」
私が店内の洗練された内装を見渡しながら言うと、カートを押してくれていたコウさんが軽く頷いた。
「ああ、そうかもね。ここはインドでも有名な高級スーパーだから。ただ、あの世界的な感染症以降は、業績的にはちょっと下降傾向らしくてね」
「そうなんですか……。こんなに素敵なお店なのに、どこも大変なんですね」
「まあ、こういう大手には頑張ってほしいよね」
コウさんはそう言って苦笑しつつ、日本食材のコーナーへと案内してくれた。
「あ、醤油もみりんもある! 豆腐や和風のだしもありますね」
「本当だね、思った以上に揃ってるね。肉じゃがの材料は揃いそう?」
「はい。じゃがいもと玉ねぎもありますし……お肉は、牛肉の代わりに鶏肉で作ってみようと思います」
「いいね、絶対美味しいやつだ。あ、この輸入の日本の調味料、好きなだけカートに入れていいからね」
「えっ、でも申し訳ないです……」
「いいの。俺とヒロシが、すみれさんの作った和食を食べたいんだから。それに――」
コウさんは棚からみりんの瓶を手に取り、カートに静かに入れながら、私をちらりと見下ろした。
「すみれさんが楽しそうに料理の材料を買い物してる顔を見られただけで、十分元は取れてるからさ」
「……っ」
不意打ちの言葉と優しい眼差しに、カッと顔が熱くなる。コウさんは何事もなかったかのように「次は野菜コーナー行こうか」と歩き出したが、私の心臓はまたしても大きな音を立てていた。
「あ、コウさん。これ、片山さんが好きそうなビールじゃないですか?」
「本当だ。ヒロシの分も買っておくか」
レジに向かいながら、コウさんがふと思い出したように言った。
「……荷物、重いから帰りはタクシー拾うね」
「ありがとうございます。……コウさん」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
(午後になったら、どうお話ししよう……)
手に持った買い物袋の重みを感じながら、私は午後の約束を思って、また胸を締め付けられるような緊張に包まれていた。
コウさんの優しさや、自分に向けられる真っ直ぐな好意は本当にありがたい。何気ない会話を覚えていてくれたり、私を尊重して待ってくれようとする姿勢に、心が揺れないわけではなかった。
不意に早くなる鼓動を押さえるように、私は小さく息を吐き出しながら、車へと乗り込んだ。
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