第121話 滞在ビザの期限と、三人で食べるピザ
その日の夕飯は、デリバリーアプリでピザを注文した。インドで食べる何度目かのピザは、有名チェーン店の日本でも馴染みのあるピザを二種類注文した。
食卓を囲み、片山さんとコウさん、私の三人でナナちゃんの思い出話をしながら熱々のピザを頬張る。飲み物は、冷蔵庫にあったコーク・ゼロとビールだ。
壁の時計は夜の八時を指していた。
ナナちゃんを乗せた飛行機が離陸してから、約三時間が経った頃だ。
「ナナちゃんのフライトは、まだ三分の一くらいですね。ちゃんと眠れてたら良いですけど……やっぱり九時間は長いですから」
私がそう話すと、缶ビールを傾けていたコウさんがふっと笑った。
「ああ、確かにね。でも彼女はビジネスクラスで横になれるし、旅系YouTuberだからどこでも爆睡できると思うよ」
「そうだよ。彼女はタフそうだから、今頃機内食を平らげてぐっすりかもね」
片山さんも伸びるチーズをハフハフと頬張りながら楽しそうに頷く。
「片山さんは、いつ日本へ帰国されるんですか?」
私の質問に、片山さんは一瞬だけちらりとコウさんに視線を向けてから、私へ向き直った。
「来週の土曜日、ちょうど一週間後のナナちゃんと同じ便のチケットを押さえたよ。特に急ぎの案件がなければその便で帰るつもり。だからあと一週間、よろしくね」
「あ、はい。こちらこそ、お二人で過ごされていたところにお邪魔してしまって……よろしくお願いします」
「それで、すみれさんは、ここにはいつまで滞在する予定なの?」
片山さんの素朴な質問に、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。コウさんの家にいつまで滞在させてもらうのか、自分でもまだ決めかねていたからだ。
すると、その気まずい空気を瞬時に察したコウさんが、すぐさま片山さんに突っ込んだ。
「おいヒロシ、お前にデリカシーってもんはないのか? そこは『ゆっくりしていけばいいよ』の一択だろうが。ったく……すみれさん、気にしないで。居たいだけ居てほしいし、本当にゆっくりしてほしいから」
コウさんの足元から、ゴンッという軽い音と共に片山さんが「痛っ」と顔を歪める。それからコウさんは、私に向けてどこまでも柔らかい笑顔を向けてくれた。
「……はい。ありがとうございます」
「ところで、すみれさんはビザはどうなってるの?」
コウさんの物理的な注意などどこ吹く風で、片山さんが平然と質問を続ける。
「えーと、マラッカにいる時に観光電子ビザ(e-Visa)を取得したんです。『三十日ビザ』と『一年ビザ』で金額があまり変わらなかったので、一応『一年有効のマルチプルビザ』にしました。一度の滞在期限は百八十日までらしくて……だから、私は八月十七日が出国の期限になります」
私の返答を聞いた瞬間、なぜかコウさんが、ピザを口へ運ぶ手をピタリと止めた。
「えっ、あの……どうかしましたか? コウさんも、ビザの滞在期限がありますよね?」
「あ、ああ。俺も『一年ビザ』だから、今月末で連続滞在期限の百八十日が来るんだ。一度どこかの国に出国しなきゃいけないんだよね。まだ行き先は決めてないんだけど」
「へえ、コウはどこ行くのさ? お前が行ったことない国なんて、もう残ってないんじゃないの?」
片山さんがビールを飲みながら気軽に尋ねる。
「ヒロシ、俺を何だと思ってるんだよ。いま世界には百九十五カ国あるんだぞ? 俺なんてまだ百カ国くらいだ。それに、昔に比べたら全然旅をしなくなったしな」
「コウさんが今まで旅した中で、一番好きな国ってどちらですか?」
私は純粋な興味から、旅のプロであるコウさんにおすすめの国を聞いてみた。
「おっ、それは僕も気になるな! コウ、どこが一番良かったんだ?」
片山さんも身を乗り出し、ふたりでコウさんの回答を待った。
「……一番か。それはすごく難しい質問だな。だってさ、食事は探せばどこでも美味いし、人との出会いはその時の運もある。治安は良いに越したことはないし、物価が安ければ食費やホテル代も浮く。何を基準にするかで変わるから、一つに絞るのは難しいよ」
コウさんは少し困ったように笑いながら、降参するように肩をすくめた。
「じゃあ、アジア圏はどうですか? たとえば……女性が一人で旅をするのにおすすめの国とか」
私の追加の質問に、コウさんが一瞬目を見開いた。
「それって……ここを出た後の次の候補地って意味で聞いてる? それを、俺に聞くの?」
どこか寂しげで、少しだけ焦ったようなコウさんの声。そこへ片山さんが助け舟を出すように笑いながら割って入った。
「まあまあ。すみれさんは純粋に、旅系YouTuberのコウに参考意見として聞いてるだけだろ。一般論としておすすめを教えてあげればいいじゃないか。な、コウ?」
「……ああ、わかってるよ」
コウさんは視線を少し落とし、片手でビール缶を弄びながら言葉を繋いだ。
「そうだな……安全面や快適さを考えるなら、シンガポール、タイ、マレーシアあたりかな。香港も昔はすごくおすすめだったんだけど、今は旅行者にも色々と制約が増えたから微妙かも。あとは台湾もいいよね、親日国で日本語も通じるし」
コウさんがサラリと挙げた国々。その中で、私は『タイ』と『香港』の文字を頭の中で思い浮かべていた。
(香港なら、ムンバイからだと成田からのフライト時間と大して変わらないな……。タイのバンコクなら、ここからの方がちょっと近い)
コウさんの元を去った後の『次の行き先』を具体的に計算し始めている自分に、少しだけ胸がチクリと痛んだ。
「なるほど……どこも魅力的な国ばかりですね」
「……どこか、気になるところでもあった?」
コウさんが静かな瞳で私をじっと見つめてくる。その真っ直ぐな視線に、私は小さく息を飲んだ。
そして、コウさんは手に持っていたビール缶をテーブルに静かに置くと、真剣な表情で私と向き直った。
「さっきは、余裕のある男ぶって『ゆっくり考えて』なんて言ったけど……やっぱりやめた。正直にぶつかることにする。すみれさん、明日の午後、俺に時間をください。片山がいるうちに、ちゃんと話しておきたいんだ」
その真っ直ぐな眼差しと力強い言葉に胸が跳ね上がり、私はドキッとして思わず小さく頷いてしまった。
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