第120話 『噂の彼』ではなく、目の前のあなた
エア・インディアAI356便が離陸し、ナナちゃんを乗せた機体が夜空へ消えていく。
別れ際、ナナちゃんは私にだけ聞こえるような小声で、「すみれさん、コウさんのこと、ちゃんと考えてあげてくださいね」と、悪戯っぽくウインクしながら囁いていった。
ナナちゃんが帰国した今、私とコウさんはふたりきりで帰路につくことになる。あの去り際の一言が頭から離れず、どうにも車内の空気が気まずい。
告白の返事を待っているはずのコウさんは、その話題に一切触れようとしなかった。
配車アプリで呼んだ車の後部座席。隣に並んで座り、流れる景色を眺めていたけれど、沈黙に耐えかねて私から口を開いた。
「……何も、聞かないんですね?」
コウさんは窓の外に視線を向けたまま、短く返す。
「何を?」
「……告白の、返事です」
「ああ」
「お返事は……」
「まだ、考えてるんでしょう?」
「えっ……はい」
「じゃあ、急がなくていいよ」
コウさんは、こちらを向いてふっと柔らかく微笑んだ。
「俺はもう、気持ちを伝えてるからさ」と言うと、彼はまた窓の外へと視線を向けた。
――それだけだった。
ここで追及もしないし、返事を催促して詰め寄ることも、さらに言葉を投げかけることもしない。
(……本当に、待ってくれるんだ)
どこまでも私を尊重してくれる彼の横顔を見つめながら、私はあらためて彼を『ひとりの男性』として意識し始めていた。
車はコンドミニアムの車寄せに到着した瞬間、激しい雷鳴とともに一気に激しいスコールが降り出した。バケツをひっくり返したような、インドらしい容赦のない土砂降りだ。
「うわ、急に来たな……」
車を降りたところで、私は足を止めた。
「傘……」
「折り畳み傘があるから、これに入って」
コウさんがパッと傘を開き、私を覆うように差し出してくれる。けれど、彼の大きな身体に対して傘は決して大きくない。ふと見上げると、コウさんは傘を露骨に私の側へと大きく傾けていた。そのせいで、彼の左肩は一瞬で雨に濡れている。
「コウさんが、濡れちゃいますよ!」
「いいよ、気にしないで」
「よくないでしょう!」
私はコウさんの腕をそっと押し返し、傘の位置を彼の肩側へと戻した。
自然と、ふたりの距離がぐっと縮まる。
雨音が激しく周囲を打ち鳴らす中、傘の下の狭い空間だけが、まるで切り取られたように静まり返っていた。肩が触れ合うほど近くにある彼の体温と、心地よいムスク系の香水の香り。
ふたりとも一瞬、黙り込んでしまう。
コウさんは何も言わない。「好きだ」とも、抱き寄せることもしない。ただ静かに、私を濡らさないように歩調を合わせて歩いてくれる。
(……なんで、こんなにドキドキしてるんだろう)
雨の音に混じって、自分の鼓動がうるさいほど胸に響いていた。
部屋に帰ると、あと一週間ほど滞在する予定の片山さんが、ふたりの濡れた肩と微妙な空気を察し、ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべていた。
けれどコウさんはそれを気にする様子もなく、「雨に濡れちゃったね。風邪をひいたら大変だ。熱いシャワーを浴びたほうがいいよ」と、真っ先に私を気遣ってくれた。
「ありがとうございます。じゃあ、そうします」
私が自分の部屋へ向かおうとした時、後ろからコウさんに呼び止められた。
「あ、そうだ。すみれさん」
「え?」
振り返ると、コウさんが持っていたバッグから小さな紙袋を差し出してきた。
「何ですか、これ?」
「空港で買ったんだ」
「えっ、いつの間に? 私に……?」
受け取って中を覗くと、そこには以前、私が「これ、美味しいですよね」と何気なく話していた、あの高級チョコレートが入っていた。
「……覚えていてくれたんですか?」
驚いて見つめると、コウさんは少し照れくさそうに首の裏をかいた。
「好きなものくらい、覚えるよ」
(……ずるいな。こういうところなんだよな)
何気ない言葉の端々から伝わってくる彼の優しさに、私の心が少しずつ、けれど確実に傾いていくのを感じていた。
熱いシャワーを浴び、着替えを済ませて自分の部屋の窓から、西の空が赤く染まっていくのを眺める。今日の日没は十九時の予報だった。ふと、ナナちゃんと眺めたアラビア海の夕日が思い出された。
しばらく夕焼けの空を眺めてから、リビングへと向かうと、コウさんが一人で荷物の整理をしていた。片山さんは自分の部屋でお仕事中のようで姿はなかった。
ナナちゃんがお土産にと購入したものの、荷物の重さオーバーで持ち帰りきれなかったお土産や、貸していた撮影機材を黙々と片付けていた。
その真剣な横顔を眺めながら、私はハッとした。
(……私、コウさんのことを全然知らなかったんだ)
ネットの噂や『有名YouTuber』というフィルターを通した姿ではなく。友達を大切にして、別れを惜しみ、好きな人を決して急かさず、何気ない会話をちゃんと覚えていてくれる、目の前の「狭山航」というひとりの男性。
私は意を決してリビングのコウさんの元へ歩み寄った。
「……あの、コウさん」
「ん? どうした?」
手を止めて振り向いた彼に、私はまっすぐ目線を合わせた。
「この前の……告白のお返事ですけど」
「うん」
「もう少しだけ……考えてもいいですか?」
コウさんは一瞬だけ目を見開いた後、心底嬉しそうな、愛おしげな笑顔を浮かべた。
「……考えてくれるんだ。もちろん。いくらでも待つよ」
静かな夜のコンドミニアムに、温かい余韻だけが優しく広がっていた。
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