第119話 この旅の友、ナナちゃんの帰国
翌朝、リビングのソファで眠っていた私は、みんなが起きてくる前に洗面と着替えを済ませるため、朝八時には起床した。
みんなを起こさないように、静かにキッチンへと向かう。失礼かなと思いながらも冷蔵庫を開けてみると、バターとスライスチーズ、ロースハム、トマトにレタス、それとオリーブオイルと黒コショウが見つかった。スライスされてはいないが、パンもある。
特別な材料がなくても十分。イタリアンでのバイトや料理教室で培った手際で、私は簡単な朝食の準備を始めた。
どこかの部屋から人の動く気配が聞こえてくると、ほどなくして「おはよう」と朝の挨拶をしながら、コウさんがキッチンに顔を出した。
「おはようございます。勝手にキッチンをお借りしちゃいました。冷蔵庫を開けてしまいましたが、食材も使って大丈夫でしたか?」
「ああ、もちろん。むしろ、ありがたいくらいだよ。誰かに朝食を作ってもらえるなんて、嬉しいよ」
「ふふふ。そう言ってもらえると嬉しいですけど、普通の朝食ですよ。みんなが起きるまでに準備しておきますから、どうぞ、洗面を済ませてください」
「はーい。……いいね、こう言うの」
コウさんはニコニコ微笑んでシャワーを浴びに部屋へと戻って行った。
トマトを薄切りにし、レタスを一口大にちぎって水につける。食パンの片面にバターを薄く塗り、ハムとチーズ、トマトを挟んだ。フライパンにオリーブオイルを軽く引き、パンを並べたら、上から水を入れた小鍋を重しとしてギュッと押し当てる。
じゅうぅ、と香ばしい音がキッチンに響き、チーズが溶ける甘い香りとオイルの芳しい匂いが部屋を満たしていく。ひっくり返して両面をカリッと黄金色に焼き上げれば、パニーニ風のホットサンドが完成した。
トマトとレタスを皿に盛り、塩とオリーブオイル、黒コショウをサッと振りかけた簡単なサラダにした。
最後に人数分のコーヒーを淹れ、香ばしい湯気が立ち上ったちょうどそのタイミングで、パタパタと足音が聞こえてリビングの扉が開いた。
「んん〜……なんか、すっごくいい匂いがする……!」
目をこすりながら出てきたナナちゃんが、テーブルの上を見てパッと目を輝かせる。続いて起きてきた片山さんも、香りに誘われるように顔を出した。
「温かいコーヒーと、朝食が準備できてますよ」
私が微笑んで声をかけると、朝の光が差し込むリビングに、幸せそうな歓声が上がった。
「わあ、美味しそう! すみれさん、お店の朝食みたい!」
ナナちゃんが歓声をあげて食卓につき、コウさんと片山さんも「これは凄いな」「本当にいい匂いだ」と嬉しそうな声を漏らしながら椅子を引き寄せた。
「温かいうちにどうぞ」と勧めると、みんな一斉にホットサンドへ手を伸ばした。
一口かぶりついたナナちゃんが、「んんーっ!」と頬を膨らませて目を丸くする。
「カリカリで、チーズがとろとろ……! トマトの甘みとペッパーが効いてて、すっごく美味しい!」
「本当だ、パンの焼き加減が絶妙だね。サラダのドレッシングもシンプルなのにすごく爽やかだ」
片山さんが感心したように頷き、コウさんも「すみれさん、料理上手なんだね」とどこか誇らしげに目を細めてコーヒーを口に運んでいた。
「よかった、お口に合って」
みんなの美味しいという笑顔を見られただけで、早起きして準備した甲斐があったと胸が温かくなる。他愛もない会話を交わしながら賑やかで温かい朝食の時間はあっという間に過ぎ、時計の針は午前十時を指していた。ナナちゃんが空港へ向かうフライトの時間は夕方。ここで過ごせるのも、あと六時間半だ。
食器を洗い、片付けを終えたところで、片山さんが申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね。僕、今日はロンドンとのリモート会議があってさ。……ここで見送るよ」
「ううん、片山さん! 滞在中は本当にありがとうございました。すっごく楽しかったです!」
ナナちゃんが満面の笑顔でお礼を口にすると、片山さんは優しく彼女の肩を叩いた。「気をつけて行くんだよ」と声をかけ、部屋へと向かっていった。
静かになったリビングで、私はコウさんと顔を見合わせた。
「私、空港までお見送りに行きたいと思います。……コウさんは、どうされますか?」
「もちろん。俺も見送りたいから一緒に行くよ」
「やったー! すみれさんもコウさんも一緒に空港に行ってくれるんですね! 出発までまだ時間はあるし……、荷物をまとめたら近くのモールにでも散歩に行きませんか?」
「ええ、カフェでゆっくり過ごしましょう。ナナちゃんのYouTubeの話を聞かせてちょうだい」
ナナちゃんが弾けたような笑顔でコウさんを見つめた。
「私、コウさんからYouTubeのお話が聞きたいです! これからのYouTuberのあり方についてとか、真面目な意見が聞きたいです!」
「おいおい、そんな熱いテーマ、残された六時間で語り尽くせるかなあ。俺、自信ないよ」
口ではそう言いながらも、コウさんは嬉しそうに目を細めている。
このかけがえのない時間を愛おしむように、私たち三人は仕事のある片山さんを部屋に残し、モールへと出かける準備を始めた。
コンドミニアムから徒歩で十分程度で、初日に訪れた『Powi Plaza ポワイ・プラザ』へ向かった。ここで差し入れ用のマフィンを購入したのは、たった九日前だなんて信じられない。それほど密度の濃い時間を過ごしたのだと感じる。
初めてコウさんに会った時は次元の違うイケメンぶりに息を飲んだものだが、今ではこうして当たり前に隣を歩き、家にまで滞在させてもらっている。人生、どこでどう転ぶか本当にわからない。
私たちは落ち着いたソファ席のあるチェーン店のカフェに入り、コウさんはエスプレッソ、ナナちゃんはカプチーノ、私はアメリカーノを注文した。
ナナちゃんは旅の思い出を振り返りつつ、コウさんに動画編集や配信者としての姿勢について熱心に質問を投げかけている。その表情からはプロとしての高い意識が伝わってきた。熱く語り合うふたりを微笑ましく眺めながら、私はスマートフォンを取り出し、Instagram『くまのスミレ』の投稿に届いたコメントへ一つひとつ丁寧に返信を書いていった。
カフェで過ごした和やかな時間はあっという間に過ぎ去り、私たちは一度コンドミニアムへ戻ってナナちゃんの荷物を積み込むと、配車アプリで呼んだ車で『Chhatrapati Shivaji Maharaj International Airport チャトラパティ・シヴァージー国際空港』へと向かった。
夕闇が迫る国際線ターミナルの出発ロビーでは、旅立つ人々が行き交い、空港独特の喧騒と高揚感が漂っていた。
「すみれさん、コウさん。……本当にお世話になりました! 私、インドに来て本当に良かったです。最高の思い出になりました!」
大きなスーツケースのハンドルを握り締め、ナナちゃんが精一杯の笑顔を浮かべる。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「気をつけて帰るんだぞ。帰国したら美味いものでも食べて、ゆっくり休めよ」
「はい! コウさんも、編集頑張ってくださいね!」
コウさんが大きく頷いて、サムズアップする。
私は一歩前に踏み出し、ナナちゃんの小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ナナちゃん、身体に気をつけてね。日本に帰ったら、また絶対に会いましょう」
「はい……。すみれさん、大好きです。私のアドバイス、忘れないでくださいね。それに、ビデオ通話でいつでも会えますから、遠慮しないで呼び出してください。あっ、でも、夜中はダメですよ」
耳元でそう囁いたナナちゃんは、体を離すと悪戯っぽくウインクしてみせた。
保安検査場へと向かうゲートの手前で、彼女は何度も立ち止まり、ちぎれるほど大きく手を振ってくれた。その姿が人混みの奥へと消えていくまで、私たちは静かに見送り続けた。
予定時刻を少し過ぎた頃、エア・インディアAI356便の機体がゆっくりと滑走路を進み、やがて翼を広げてムンバイの空へと静かに飛び立っていった。これから約九時間のフライト。目的地は、東京・羽田空港だ。
ナナちゃんという太陽のような存在がいなくなった寂しさと、彼女が残していってくれた温かな勇気が、胸の中で静かに広がっていた。
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