第118話 涙の後の、笑い声
楽しい夕食が終わり、配車アプリで呼んだ車でコンドミニアムに帰宅した。
メインバスルームとゲスト用のシャワールームを使ってそれぞれお風呂を済ませ、明日帰国するナナちゃんは洗濯と乾燥機を回しながら荷物整理を始める。
私は、ナナちゃんが使っているゲストルームへお邪魔して、パッキングをする彼女を眺めながらコーヒー片手に話をしていた。
「明日帰国しちゃうのね。寂しくなるわ……。出会ってからまだ半月しか一緒に過ごしていないのに、もっと長く一緒にいたような気がするから不思議ね」
「はい。私もそう思うんですよ。マラッカで出会ってから三日目には一緒にムンバイに渡って、それからコウさんに会って、三人でインドを旅することになるなんて。本当に、人生って面白いですよね」
ナナちゃんはパッキングの手を止めずに、懐かしそうに語る。
私は彼女の話を聞きながら、ふと、この子は無理をしているのではないかと心配になった。
「ナナちゃん……帰国するにあたって、その……元彼に対する気持ちは、少しは整理できたのかなって。ちょっと心配で」
私の問いかけに、ナナちゃんがびっくりしたように顔を上げた。
「……すみれさん、気にかけてくれていたんですね。その気持ちがすごく嬉しいです」
ナナちゃんは優しい微笑みを浮かべて、静かに言葉を続けた。
「私、大学を卒業してから、社会人として初めて付き合った人が元彼で、なんとなく結婚を意識していたんだと思うんです。だから、彼から『結婚することになった』って言われた時、『私は結婚相手に選ばれなかったんだ』って、ショックを受けたんだと思います」
ナナちゃんは手を止め、フローリングの床に体育座りになると、自分のつま先を見つめながら話し出した。
「今は、あの人はただの不誠実な男性だったんだって思えるんです。結局は本命の彼女さんがいて、私とはただ遊びで付き合っていただけの、ひどい男。実は……今回の旅の間にも、何度かメッセージが届いていたんです。『元気?』『食事でも行かない?』って。婚約者さんがいるのに最低ですよね。今ならはっきりわかります。私のことを遊び相手として都合よく付き合おうとしているんだって。現実を知った今、絶対にそんな男に都合よく使われるなんて嫌なんです。だから……」
ナナちゃんが顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。
「ブロックしてやりました! もう連絡なんてしませんし、顔を見るのも嫌です!」
気丈に振る舞う彼女の頑張りが、痛いほど胸に伝わってきた。元彼との破局から、まだ半年ほどしか経っていない。きっと内心では、今も苦しくてたまらない瞬間があるはずだ。それでも彼女は、間違いなく前を向こうとしている。なんて素敵で、健気な女の子なんだろう。
「だって、私って美人じゃないですか! その上、日本最高学府卒の高学歴で、YouTuberとしても成功していて……性格だって、まあまあ良いでしょう? だから、そんな私を騙すなんて最悪な男、付き合う価値なんてないですよね? ね、すみれさん!」
強気の言葉を並べるナナちゃんの笑顔は、どこか泣いているように見えた。
私は手に持っていたマグカップを置き、床に膝をついて、体育座りをする彼女の頭を横からそっと抱きしめた。
「そうよ。その通りよ、ナナちゃん。ナナちゃんは最高に素敵な女の子よ。あなたはまだ二十三歳。これからいくらだって素敵な出会いがあるわ。そんな男、捨てて大正解! 婚約してから判明するよりずっと良かったじゃない。だから、恋に臆病にならないで。慎重になってもいい、警戒してもいい、でも素敵な恋を諦めないでね」
この旅を共にしたナナちゃんへ、精一杯のエールを送る。けれど途中からは、それは自分自身への決意表明のようにも感じていた。
「ふふふ……すみれさん、ありがとうございます。でも、同じ言葉をすみれさんにも贈らせてください。どうか、恋を怖がらないで。ネットに流れるデマと、本物のコウさんは違うと思います。目の前にいるコウさんご本人を見て、判断してあげてください。これは私からのアドバイスです!」
そう言って、ナナちゃんもぎゅっと私を抱き返してくれた。
私たちは互いを抱きしめ合い、ずっと胸の奥に溜め込んでいた想いを吐き出すように、声を上げて泣いた。
「なんで私を騙したのよ!」
「なんで浮気なんかしたのよ……」
「ヒカル、私のこと好きだって言ったくせに!」
「告白したのは健一のほうだったのに……」
「結婚したらって、何度も話してたのに!」
「新居も購入して、家具だって全部揃えたのに……」
「仕事が忙しいって言うから合わせてたのに!」
「出張だって言うから、信じて待ってたのに……」
今まで誰にも口にできなかった不満や怒りが、ナナちゃんの温もりの中で溢れ出していく。散々泣いて、文句を吐き出した後、ふとお互いの顔を見合わせた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったひどい顔に、急に可笑しさが込み上げてくる。
「あはは! すみれさん、すごい顔になってますよ!」
「まあ、ナナちゃんこそ。目と鼻が真っ赤よ」
「そうですか。でも……すごくスッキリしました! 本当に毒を出し切った感じです!」
「ふふふ、本当ね。なんだか胸がすーっと軽くなったわ」
「これってまるでカウンセリングですね。お互いに感情を吐き出して、受け止めてもらって……いわゆるカタルシスっていうのかな。心理学の本では知ってましたけど、こんなにスッキリするとは思いませんでした」
「ふふっ、そうね。高いカウンセリング代、得しちゃったかもしれないわね」
「それにしてもすみれさん! 初めて聞きましたよ! 新居まで準備されてたんですね……。ローンの返済義務とかは大丈夫だったんですか?」
「ええ。頭金はお互いに出し合っていたんだけど、彼が全額返金してくれたの。ローンも彼の単独名義だったから、私の金銭的負担は残らなくて。……そこだけは、まだ誠実だったのかな」
「それ、誠実じゃなくて『最低限の義務を果たしただけ』です! でもまあ、泥沼の金銭トラブルにならなかったのだけは、怪我の功名ってことにしておきましょう!」
私たちはすっきりとした笑顔で見つめ合い、笑い合った。
その頃、ゲストルームのドアの外では、男ふたりが怪訝な顔で立ち尽くしていた。
「おいコウ……泣き声が聞こえたかと思ったら、今度は大爆笑だぞ」
「ヒロシ、お前ノックしてみろよ。何かあったら心配だろ!」
「お前がノックしろよ。ここ、お前の家だろ」
「バカ! できるわけないだろ! 空気読めない男だと思われたらどうするんだ! 告白しただけでも、十分空気読めてないと思われてるかもしれないのに……」
「あー……まあな」
「おいヒロシ! お前もそう思ってたのかよ!?」
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