第116話 目的地のない旅の途中で
「ナナちゃん、明日のフライトは夜便だろ?」
以前食べたことにあるマハラジャバーガーを頬張りながら、コウさんが尋ねた。
「十九時半発のエア・インディアです。二時間前には空港に着いていたいので、渋滞のことを考えると、十六時半くらいに出れば間に合いますか?」
「うん、そうだね。ここからなら何もなければ三十分ほどで着くから十分じゃないかな」
「じゃあ明日はゆっくり起きて、のんびり過ごそうか。みんなでブランチにでも出かけようよ」
片山さんの提案に、ナナちゃんがパッと表情を明るくした。
「はい! 皆さんと過ごせるのも最後ですし、ゆっくり過ごしたいです。ね、すみれさん!」
「ええ……そうね」
私は微笑みを返しつつも、ナナちゃんが口にした『最後』という言葉に、胸の奥がギュッと締めつけられるような感覚を覚えていた。あんなに濃密だった旅が、本当に終わりに向かっているのだと突きつけられた気がして、目頭が熱くなる。
「片山さんは、いつまでムンバイにいらっしゃるんですか?」
ナナちゃんの問いに、フライドポテトを片手につまみながら片山さんが答えた。
「僕も来週末には帰国する予定だよ。まあ、リモートワークだからどこにいても問題はないんだけど、流石に日本の家を空けっぱなしなのも気になるからね……。すみれさんは? いつまでこっちにいるの?」
「私は……」
不意に振られた質問に、言葉が詰まる。
「まだ、決めかねていて……」
言葉を濁す私に、ナナちゃんが身を乗り出すようにして明るい声をかけた。
「老子の言葉にあるじゃないですか。『千里の行も、足下より始まる』って。英語なら A journey of a thousand miles begins with a single step. ですよ!」
老子の言葉を朗らかに口にするナナちゃんの瞳は、まっすぐでキラキラと輝いていた。
無邪気で、あたたかくて、心の底から私のことを心配して励まそうとしてくれているのが伝わってくる。だからこそ、その言葉の眩しさに胸が少しだけ痛んだ。
(人生は、旅……)
二十五歳で自分の道を突き進むナナちゃんは、日本へ帰国し、さらに輝くのだろう。
それに引き換え、二十九歳で無職、将来への確かな道筋もない私。
私の『目的地が決まっていない旅』は、けして格好の良いものではなく、単に立ち止まる勇気も、立ち向かう勇気もなく逃げているだけなのかもしれない。
「ナナちゃん、なんで急に老子なのさ。渋すぎない?」
片山さんが、不思議そうな表情を浮かべてナナちゃんに尋ねた。
「えっ? そうですか?」
「いやいや、普通、旅に悩んでる人を励ますときに『老子』は出てこないだろ」
「ええ〜、そうですか……? 『老子』一択ですけどね」
きょとんと首を傾げるナナちゃんを見て、片山さんが苦笑する。
「だって、いきなり『千里の行も足下に始まる』なんて言われたら、俺なら一瞬固まるよ」
「あはは……。実は私、大学の卒論が『老子』だったんですよ」
「えっ? 卒論が『老子』?」
片山さんが目を丸くして身を乗り出した。
「ナナちゃん、大学って何学部だったの?」
「文学部です」
「へえ、どこの大学だっけ?」
「東京大学です」
「…………」
「…………」
「……東大? あの、賢い?」
「まあ、はい」
さらりと答えるナナちゃんに、片山さんが完全に絶句した。
「ちょ、ちょっと待って。東大で老子の卒論書いてたの!?」
「はい。だから、こういう言葉ってつい出ちゃうんですよね」
「なるほど……。そりゃ急に老子が出てくるわけだわ」
片山さんが妙に納得した顔で深く頷いたあと、改めてナナちゃんをまじまじと見つめた。
「というか、ナナちゃん……めちゃくちゃ頭いいんだね」
「え? 私、普通ですよ?」
「いや、東大卒は普通じゃないから!」
間髪入れずにツッコんだ片山さんは、呆れと感心が混ざったような顔でナナちゃんを見つめ、しみじみと頷いた。
「君、すごいね。ちっともそんなふうに見せないじゃん。いやあ、『本物』って、やっぱりすごいんだな。コウもだけどさ。ねえ、すみれさん、俺たち仲良くしようね!」
「ふふ、そうですね。ぜひ仲良くさせてください」
突然『仲間』に巻き込まれた私を見て、コウさんが「おいおい」と苦笑する。
思わぬナナちゃんの素顔と片山さんの気さくなツッコミに、さっきまで胸の中にあった湿っぽさは一気に吹き飛んでしまった。
本気で不思議そうに首を傾げるナナちゃんと、間髪入れずにツッコむ片山さん。賑やかで温かい笑い声が、ムンバイの午後のリビングに心地よく響き渡っていた。
そのやり取りがあまりにもおかしくて可愛らしくて、私とコウさんは思わず顔を見合わせて、声を上げて笑ってしまった。
「ははは。ナナちゃん、そんな簡単に言わないの。すみれさんにはすみれさんの考えやペースがあるんだからさ」
コウさんが静かな声でナナちゃんを優しく諫めた。その声には、私の複雑な事情や葛藤を察してくれているような温かな配慮が滲んでいる。
「あ……ごめんなさい、すみれさん。私ったら、出しゃばったこと言っちゃって……」
急にしゅんとしたナナちゃんを見て、私は慌てて 首を横に振った。
「ううん、謝らないでナナちゃん。すごく素敵な言葉だし、なんだか胸が軽くなったよ。ありがとう」
お愛想ではなく、本当に感謝していた。目的地が見つからなくても、今この瞬間をしっかりと生きることが『旅』なのだとしたら、私のこの迷い傷ついた末の『旅の日々』にも少しは意味があるのかもしれないと思えたから。
「そうだよ、すみれさん。焦る必要なんてどこにもないんだからさ。ここに居たければ、気の済むまでずっと居ていいんだしね……その方が俺は嬉しいしさ」
コウさんが私を包み込むような優しい視線を向けながら、穏やかに言った。
「……ありがとうございます。でも、いつまでも皆さんの優しさに甘えてばかりはいられませんから。あと数日だけお世話になります。ムンバイにいる間に、自分の足で進む方向をしっかり考えてみますね」
私が微笑みながらそう告げると、部屋の空気がふっと柔らかく和らいだ。
答えはまだ出ない。けれど、自分の人生から逃げずに向き合おうという小さな覚悟が、胸の奥で静かに固まりつつあった。
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