第115話 一週間ぶりの「ただいま!」
ホテルで朝食を済ませ、早朝にホテルを後にした。今朝もガンジス川は朝から沐浴の人たちで賑わっていた。
空港へ向かうタクシーの車窓からは朝のラッシュが始まりつつある街並みが流れていく。車で揺られること約一時間、『Lal Bahadur Shastri International Airport ラール・バハードゥル・シャーストリー空港』から『Air India Express Flight IX1810 エア・インディア・エクスプレスIX 1810便』に乗り込み、約二時間半のフライトで一路ムンバイへと戻る。
機内は満席に近い状態だ。聖地バラナシでの巡礼を終えたのか家族連れや、大きなバックパックを足元に押し込む欧米人風の外国人観光客、ビジネストリップと思しきビジネスマンなど、実にさまざまな人々が乗り合わせている。
離陸前から機内はとにかく賑やかだった。スマホで大声で通話する人、座席で平然と席替えの交渉を始める人など、日本の静かな機内とはまるで雰囲気が違う。
「ナナちゃん、窓際どうぞ。バラナシの街が最後に撮影できるかも」
ナナちゃんに窓際席を譲り、私とナナちゃんが二人席に並んで座る。
離陸してしばらくすると、有料の機内食カートがガラガラと音を立てて運ばれてきた。周りのインド人客たちが注文したスパイシーなビリヤニやサモサの香りが一気に広がってくる。
「すごいスパイスの香り……。お腹すいてきちゃいますね」
「ふふ、本当ね。でも、ムンバイに着いてからコウさんのお宅で美味しいランチが待ってるから、今は我慢しようね」
窓の外に目をやると、ガンジス川の茶色くうねる大河が小さくなっていき、やがて一面の雲海へと変わっていった。
約二時間半のフライト中、前の座席では小さな子供が笑い転げていたり、CAさんが忙しそうに行き来していたり。インドの熱気とエネルギーをそのまま機内に詰め込んだような、短くも濃密な空の旅だった。
やがてシートベルト着用サインが点灯し、窓の外に高層ビル群と広大な海が見えてくると、飛行機はゆっくりとムンバイの『Chhatrapati Shivaji Maharaj International Airport チャトラパティ・シバジ・マハラジ国際空港』に着陸したのだった。
昼過ぎ、熱気と活気に満ちたムンバイの地に降り立った。
ムンバイでの滞在先は、以前にも訪問したコウさんのご自宅にお世話になることになっている。緑が多く、日本人駐在員にも人気が高いという『Powai ポワイ』地区にあるご自宅へ車で移動し、無事にコウさんの自宅があるコンドミニアムに到着した頃には時刻は二時近くになっていた。
扉を開けて部屋に入ると、ムンバイで一人、留守を預かっていた片山さんが笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり! みんな元気そうだね。体調でも崩すんじゃないかと心配してたんだけど、無事で何よりだよ」
「ただいま戻りました、片山さん」
片山さんとの再会は、ほんの一週間ぶりのことだ。それなのに、まるで何週間も会っていなかったかのような、どこか遠い昔のような不思議な感覚を覚える。
(たった一週間なのに……本当に、濃密でたくさんのことがあった一週間だったんだな)
バラナシでの出来事や勇気君との出会い、そして自分の心境の変化。さまざまな思いが胸を駆け巡り、私は改めてこの一週間の密度の濃さを実感していた。
「みんなお腹空いてるだろ? テイクアウトでMcDonald’s買っておいたから、一緒に食べようよ」
リビングのテーブルには、片山さんが準備してくれていた四人分のマクドナルドの袋が並んでいた。子供の頃から馴染みのある、見慣れたファーストフードがたまらなく魅力的に感じられるから不思議だ。
バックパックを下ろし、一息ついたところで、まずは遅めのランチを囲みながら談笑していると、話題は今夜の部屋割りへと移っていった。
「ナナちゃんは明日帰国するわけだし、横になれたらいい感じだろ? すみれさんには俺の部屋を使ってもらって、俺はリビングのソファベッドで寝ればいいしさ」
コウさんの申し出に、私とナナちゃんは思わず顔を見合わせた。
「ええ! 私がソファで大丈夫ですよ!」
ナナちゃんが焦ったように手を振る。
「いやいや、さすがに翌日に十時間近いフライトを控えた女性をソファで寝かせるわけにはいかないよ。……でも、ビジネスクラスだろう?」
「ええ、まあ……だから、本当にソファで大丈夫ですよ!」
恐縮するナナちゃんを見て、私も慌てて口を挟んだ。
「あの、私の方こそソファで眠れますよ。私はもう一日お世話になる予定ですし、全然問題ありませんから」
私たちが譲り合っていると、急にコウさんが言葉を詰まらせ、二人して少し気まずい沈黙が流れた。
「……まあ、確かに男の俺の部屋で寝てっていうのも、ちょっと落ち着かないかな。じゃあ、すみれさんにソファで寝てもらおうか」
コウさんが苦笑いを浮かべながら着地点を探すと、ナナちゃんが申し訳なさそうに私を見た。
「えっ! すみれさん、私本当にソファで大丈夫ですよ?」
「ふふ、ありがとうナナちゃん。でもね、以前泊まったカプセルホテルに比べたら、コウさんの大きくて立派なソファなんて贅沢なほどよ。だから気にしないで、ベッドでゆっくり旅の疲れをとってちょうだい」
私が微笑んで答えると、ナナちゃんはまだ少し恐縮しつつもほっとした表情を浮かべた。
「うーん……じゃあ、本当にお言葉に甘えて、お部屋を使わせてもらいますね」
そんな私たちのやり取りを、横で楽しそうに眺めていた片山さんが口を挟んだ。
「ごめんね。僕が使わせてもらってる部屋、荷物が散らばっちゃっててさ。かと言って、僕とコウが同じベッドで一緒に寝るのもアレだしさ」
「ああ、それは勘弁だわ」
コウさんが肩をすくめると、みんなからどっと笑いが起きた。
「本当に、俺がソファで寝てもいいんだけど……」
「いいえ。コウさんのお部屋をお借りするわけにはいきませんよ。どうぞお気になさらず、ソファを使わせてくださいね」
そう言って笑い合う。
再会した片山さんは、「僕は毎日、ここでリモートワークさ」とパソコンを指さしながら笑っていた。
こうして、ムンバイでのナナちゃんと過ごす残り少ない貴重な時間は、ゆっくりと過ぎていった。
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