第113話 ◆ 美咲の勝ち組の仮面
智樹のような『ただの中堅企業の専務の息子』とは格が違う。歴史と圧倒的な資産を持つ代々の名家。しかも、容姿も年齢も文句なし。これ以上の条件の男など、なかなか出会うことはないだろう。
美咲はこれまで培った『理想的な結婚相手』の仮面を被り、慎ましやかに、かつ知性に溢れた爽やかな笑顔で黒川に近づいた。
「黒川様のようなお立場の方ですと、お忙しくてお休みもなかなか取れないのではありませんか?」
「ええ。ですが、伝統を守るのも僕の役目ですから。……ルナさんは、他の女性と違って落ち着いていて、とても品がありますね」
「まあ……嬉しいです。私、派手な場所より、歴史や伝統のある落ち着いた雰囲気が好きなんです。事情があって、この仕事につきましたが、まだ数週間なんです」
嘘八百の言葉が口から突いて出る。黒川の目が、満足そうに細められた。
(かかった……! 今度こそ、誰にも邪魔させない。この男を絶対に捕まえて、何不自由ない最高の勝ち組生活を手に入れてやるわ!)
美咲の猛烈なアプローチと完璧な演技により、二人の関係は急速に深まっていった。
だが——美咲はまだ知らなかった。
黒川が求めているのは、美咲が夢見る『金持ちの夫に養われ、優雅に浪費して周囲から羨ましがられるだけの妻』などではないということを。
「結婚したら、君には母である女将の元でしっかりと接客作法や着付けを学んでもらうよ。老舗の跡取りの妻として、お客様の前では常に品位を保ち、僕と一緒にこの黒川の家と暖簾を守っていってほしいんだ。もちろん、無駄な浪費は困るよ」
黒川は悪人ではない。むしろ真摯に『家を守るパートナー』を探しているだけだった。だからこそ、美咲の思い描く『甘い生活』と、黒川が妻に求める『過酷な義務』は、最初から大きく食い違っていた。
そして何より——黒川が美咲を選んだ最大の理由。
(女性に恋愛感情はないが、家に後継者だけは作らなければならない。品が良くて従順そうで、自分の代わりに家業の手伝いをしてくれる都合のいい女なら、誰でもよかったんだが……。打算的な女の方が、目的がはっきりしている分、自分から離婚は口にしないだろうしね)
もちろん、後継者をもうける以上、子供を作ることから逃げるつもりはなかった。黒川にとって、それもまた『黒川家の跡取りを残す』という役目の一つだった。
バイセクシュアルではあるものの、男性への恋愛感情が強い黒川にとって、この結婚は単なる『後継者をもうけるための契約』に過ぎなかった。
愛されることもなく、厳しい伝統の家業に縛り付けられる未来が待っているとも知らず、美咲は『ついに手に入る本物の玉の輿』に、狂喜乱舞しながら飛びついていくのだった。
美咲にとって、過酷な作法や厳しい家業の教えは『苦労』ではなかった。自分を高め、『本物の特別な女』へと昇格させるための磨き上げに過ぎなかったのだ。
◇
狙い通り、黒川との結婚は美咲の自尊心をこれ以上ないほど満たした。
『創業百五十年、政財界にも贔屓客を持つ老舗旅館。若き五代目と、その伝統ある家業に嫁いだ美しき若女将』。テレビの旅番組でそう特集され、上質な着物を艶やかに着こなした自分が画面に映し出された時、美咲は自室のベッドの上で録画しておいたテレビ放送を視聴しながらウットリと吐息を漏らした。
(これが私……。すごいわ……日本中の人が、私を見ている!)
『本日はテレビの取材でございました。女将から伝統の接客を学んでおります』
SNSにそう添えて投稿すれば、かつての派遣時代の同僚や知人からも、羨望と嫉妬の混じったコメントが書き込まれる。
(見たかしら、健一さん。智樹さん。私を捨てた男たち……! 私はあなたたちなんかが届かない、本物の名家の若女将になったのよ!)
派遣社員だった自分が手に入れた、圧倒的な逆転劇。美咲は自分こそが『最高の勝ち組人生』だと確信していた。
しかし、『シンデレラストーリー』の裏側に潜む違和感は、結婚生活が始まった頃から少しずつ美咲の首を絞め始めた。
毎日早朝からの事務作業。常連客への神経をすり減らす挨拶回り。現役女将である義母からの厳しくも容赦ない小言。名家の妻として相応しくないブランド物の浪費は固く禁じられ、自由な時間などほとんど存在しなかった。
だが、何よりも美咲の心を傷つけたのは、夫である黒川との関係だった。
後継者をもうけるための子作りは必要だった。黒川は美咲の妊娠の可能性が高い時期を確認し、その時期になると夫としての役目を果たした。
けれど、それはあくまで『黒川家の後継者を作るため』。そこに、美咲が期待するような夫婦の情愛はなかった。
「美咲は今日も綺麗だね」と微笑む。しかし、その瞳に情熱はなかった。
(忙しいから疲れているだけ……? いいえ、違う……。この人、私を『女』として見ていない……?)
愛のない夫婦関係。心を通わせることもなく、外では笑顔で『仲睦まじい若旦那と若女将』を演じ続ける毎日。普通なら、耐えかねて離婚も考えるだろうが、美咲にはそれが絶対にできなかった。
(離婚なんて……できるわけがないでしょう……!)
離婚してしまえば、自分はまた『何者でもないただの女』に逆戻りする。SNSのフォロワーも、テレビで観てくれた人々も、全員が『あの人、結局別れたのね』と嘲笑うだろう。
夫から女として一度も愛されず、厳しい老舗旅館の歴史の重圧に押し潰されそうになりながらも、美咲は今日も美しい笑顔で豪華な着物を着こなして、スマホのカメラに『幸せな若女将』の仮面を向け続けるのだった。
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