第112話 ◆ 『特別』な私の居場所
猛暑の街を、美咲は苦々しい思いで歩いていた。
欲しいものは、何一つ手に入っていない。誰もが羨むような婚約者、潤沢なお金、都心の広いマンション、そして、誰もが羨む優雅な暮らし。
『智樹さんと結婚して勝ち組になり、周囲から羨望の眼差しを向けられる』はずだった計画は、すべて崩れ去っていた。
(なんで……? 私の何がいけないっていうの……?)
セットしたばかりの前髪が、汗で額に張り付く。惨めさと苛立ちで押し潰されそうになっていたその時、不意に正面から男に声をかけられた。
「お姉さん、お綺麗ですね。モデルとか夜のお仕事、興味ありません?」
「……は?」
一瞬、警戒して通り過ぎようとした美咲だったが、男は手際よく名刺を差し出しながら、巧みに美咲のプライドを煽る言葉を並べ立てた。
「いや、本当にスタイルいいし、雰囲気にも品があるから絶対に夜職向いてますよ。今なら固定のお客様をつければ、昼の会社員なんてバカらしくなるくらい稼げます」
「夜のお店? 私がそんなところで働くわけ……」
「ただのキャバクラじゃないですよ。うちが紹介するのは、客層が段違いの高級店です。会社経営者とか、お医者様とか、本当にお金持ちのお客様ばかりですから」
——お金持ちのお客様。
その言葉が、美咲の脳内に強く刺さった。
(お金持ちの男が……ゴロゴロいるの?)
その瞬間、美咲の頭の中で、別の考えが弾けた。
(そうよ……キャバクラなら、お金持ちの男と手っ取り早く出会えるじゃない!)
冷め切っていた野心の火が、再び激しく燃え上がる。
(智樹さんより、もっと条件のいい男を捕まえればいいんだわ。会社経営者か、開業医。今度こそ、誰も邪魔できないような『本物の玉の輿』に乗ってやる。私なら、もっといい男をいくらでも捕まえられるはずよ……!)
派遣の仕事に戻れば、また賞与もなく、契約更新を気にしながら、正社員たちに気を遣って働く『派遣社員』に逆戻りだ。
婚約が解消されたことを知れば、周囲はきっと、『やっぱり捨てられたんだ』と陰で笑うだろう。
何より、それが耐えられなかった。
これまで美咲自身、結婚相手の条件や暮らしぶりを比べては、他人を心の中で値踏みしてきた。誰がどんな男と付き合っているのか、どんなマンションに住んでいるのか。自分より『下』だと思えば、密かに優越感を覚えていた。
だからこそ、自分が今度は『捨てられた女』として見られることだけは、絶対に受け入れられなかった。
美咲は男の名刺をぎゅっと握りしめ、笑みを浮かべた。
「……話、詳しく聞かせてくれる?」
◇
男から店の条件や待遇について詳しく説明を受けた美咲は、その場では即答せず、一旦持ち帰って考えることにした。
だが、その夜。『経営者や医師など、客層のいい高級店』、その言葉が、頭から離れなかった。結局、美咲は数日後に面接を受け、入店を決めた。
しかし現実は、美咲の甘い妄想を容赦なく打ち砕いた。
源氏名『ルナ』として初めて店に出た日。店内には、自分より若く、華やかな女性たちが溢れていた。
さらに、美咲が期待していた『結婚相手を探している富裕層』など、ほとんど存在しなかった。店に来る男たちは、遊ぶために金を払っているのだ。女性を見る目も、驚くほど厳しかった。
「ルナちゃん、君さあ、自分の話ばっかりだね。俺のグラス、空いてるんだけど?」
「……あ、すみません」
指名を取ろうと自分の魅力をアピールすればするほど、客からは『綺麗だけど気の利かない女』と引かれ、次々とヘルプを外された。若さや容姿だけでは太刀打ちできず、求められるのは高度な会話力と徹底した気遣いだったのだ。
「ちょっとルナさん、あのお客様への態度、何? うちの店、そういう上から目線の接客困るんだけど」
(なによ……! 私に問題があるわけないじゃない! この店の客の見る目がないだけよ! 私の魅力を理解できないような安っぽい男ばかり寄こすからでしょう!? もっと上のクラスの男なら、私の価値を絶対に分かってくれるはずなのに……!)
客や店への苛立ちを募らせながらも、美咲は悔しそうに歯を食いしばった。辞めるわけにはいかない。誰か見つけなければ、ただの『惨めな負け犬』になってしまう。
(あの子……私より大して綺麗でもないのに、なんであんなに指名が入るのよ!?)
美咲は人気嬢たちの接客を観察し始めた。相手を喜ばせようという謙虚な発想など微塵もない。美咲が考えているのはただ一つ。
(どうすれば、男を私に夢中にさせて、結婚まで持ち込めるか)
営業LINEの送り方、男の自尊心をくすぐる褒め方、相手に『特別な女』だと思わせる話術。美咲は、それらを男を落とすための武器として、貪欲に吸収していった。
入店から四週目のある日、チャンスが訪れた。
「ルナちゃん、今日ヘルプで付く社長さん、かなり使う人だから。粗相しないでよ」
黒服の言葉に、美咲の瞳がギラりと光った。
(来た……!)
席についたのは、身なりの整った実業家風の男性だった。美咲はここぞとばかりに覚えたての媚びと容姿を武器に揺さぶりをかけたが、男性の目は驚くほど冷ややかだった。
「君、さっきから上辺だけの褒め言葉ばかりだね。そういうの、聞き飽きてるんだよね」
一瞬で本性を見抜かれ、冷たくあしらわれた美咲は背中に冷や汗をかいた。
(……ただ綺麗なだけじゃ、本当のお金持ちは捕まえられない……!)
ここで折れるどころか、美咲の歪んだ執着心はさらに跳ね上がった。
そこからの美咲の『自分磨き』は凄まじかった。すべては『本物の玉の輿に乗る』という目的のためだけに。
貯金の大半を注ぎ込んで高級ブランドの服を買い揃え、夜の女に見えない上品なメイクとヘアスタイルを研究した。ワインや高級レストランの知識を詰め込み、経営者が好みそうな経済やビジネスの話題を丸暗記した。SNSも、まるで『生まれつき裕福な育ちの良い令嬢』であるかのように完璧にブランディングし直した。
(私がもっと完璧になれば、今度こそ誰にも捨てられない。健一も、智樹さんも、見返してやる……!)
智樹との婚約破棄から何も学んでいない美咲は、反省するどころか、求める相手の条件を際限なく肥大化させていった。
(単なるお金持ちじゃダメ。会社経営者でも、中小企業じゃ意味がないわ。住むなら都心のタワマンがいい。できれば歴史ある会社の跡継ぎで、ルックスも私の隣に立って見劣りしなくて、私を大切にしてくれて、結婚後も好きなだけカードを使わせてくれる人……!)
高望みに高望みを重ね、自分の理想を塗り固めていたある夜。
店のVVIP席に、一人の男性が現れた。
仕立ての良いスーツ、洗練された立ち振る舞い、そして黒服たちの緊張感が明らかに違った。
VVIP席に座っていたのは、洗練された雰囲気を纏う三十代半ばの男——黒川だった。整った容姿に、仕立ての良い高級スーツ。左手首にはさりげなく覗く高級時計。
黒服から耳打ちされた彼の素性は、美咲の耳を疑わせるほど破格のものだった。
明治初期から続く、創業百五十年を超える老舗旅館の跡取り。旅館の年商は数十億にのぼり、都心の一等地にもいくつもの不動産を所有しているという。
そして――独身。
(……これよ!)
美咲の胸が高鳴った。
(これが、私の求めていた『本物』の玉の輿……!)
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