第111話 ◇ 画面越しの兄弟
その夜、仕事から帰宅した健一はシャワーを浴び、テイクアウトした巻き寿司と買い置きのカップ麺で簡単に夕食を済ませた。
夜七時半を過ぎた頃、缶ビールを片手にリビングのソファへ腰掛け、慎二へビデオ通話をかける。画面が切り替わると、少し疲れの滲む慎二の顔が映し出された。
「おう、疲れた顔してるな。……今日はあの女が迷惑をかけてすまなかった。職場の方は大丈夫だったか?」
弟の表情を見て、健一が申し訳なさそうに切り出す。
「ああ。まあ、別に取り乱したりはしなかったから問題はなかったけどさ。それにしても何なんだよ、あの女。結婚するんだろ? なんで今さら兄貴を追いかけてんだよ。マリッジブルーか何かか?」
「いや、どうやら違うみたいだ。お前から連絡をもらってから会社の同期にメッセージで尋ねてみたんだが……どうも佐々岡技研の専務の息子との婚約が、白紙になったらしい」
「は? そりゃまたお気の毒さまだね。で、理由は?」
「同期が聞いた噂だと、相手の男が『興信所の調査で女の素行の悪さが分かった』って周囲に漏らしてるらしい。専務の奥さんが興信所に調査を依頼したみたいだな」
「うわぁ……自業自得だろうけどさ。でも、その男もなんか器が小さくない? 好きで婚約したんなら、母親の反対くらい突っぱねりゃいいのに」
「まあな。でも佐々岡技研はガチガチの同族経営で有名だからな。素行に問題のある嫁なんて絶対に許されないんだろうよ」
「ふーん。それで焦って、元カレの兄貴とやり直そうとしてるわけか。あの女、見た目だけはそこそこ綺麗なのに、生き方が残念すぎるだろ」
「……そうだな。あと、俺は『元カレ』じゃないからな。付き合ってはいない」
「ああ、まあ、婚約者がいたんだから、結局は浮気だけどね。それで、兄貴はどうすんの? あの女、必死で連絡先を探してる様子だったぞ」
「俺はもう終わった関係だ。たとえ連絡が来ても話すことなんて何もないし、無視するだけだよ」
「まあ、そうなるよね。でもあの行動力があるなら、さっさと次の男でも探せばいいのに。終わった相手に縋ったって時間の無駄だろうにさ」
「確かにな。何を考えているのか、俺にはさっぱり分からない。あんな女と関係を持ってしまった自分の愚かさが嫌になるよ……」
「本当だよなー。まあ、過去は変えられないんだからさ、時間が解決してくれるのを待つしかないんじゃない? でも、マジで海外赴任中で良かったな。日本にいたら会社か家に突撃されてたんじゃないの?」
「……ああ。想像するだけでゾッとするよ」
「だろ? ああいう危険人物には近づかないに限るよ。正直、俺も二度と関わりたくないし」
「本当にすまなかった。申し訳ない」
「ははっ、兄貴にこんな平謝りされる日が来るなんてね。これはでかい貸しだからな!」
「ああ。次に会った時にでも、埋め合わせはするよ」
そう言って苦笑いを交わし、二人はしばらく他愛のない世間話を交わしてから通話を切った。
慎二との通話を終えた健一は、スマートフォンをテーブルに置いた。
画面の向こうで慎二は『二度と関わりたくない』と笑い飛ばしてくれたが、かつての不貞の相手であった美咲がいまだに自分に執着しているという事実を思い出すと、やはり背筋が冷たくなる思いがした。
(日本にいたら、今頃どうなっていたか……)
ふと、窓の外に広がるジャカルタの夜空に目をやる。
日本を飛び出し、このインドネシアの地に降り立ってから、すでに一ヶ月が経とうとしていた。
振り返れば、この一ヶ月は激動の連続だった。特に赴任直後の最初の1週間は、何もかもが想像を絶していた。
まず強烈なのは、日本との環境の違いだ。とにかく暑い。湿度が高く、一歩外に出るだけで噴き出すような汗に悩まされる。そして渋滞が想像以上だった。車で三十分の距離が、時間帯によっては一時間以上かかることも珍しくない。歩道が整備されていない場所も多く、日本のように気軽な徒歩移動などできなかった。
ショッピングモールやコンビニは意外と充実しており、街のあちこちに日本食レストランを見つけてホッとしたものの、物価感覚を掴むのにもひと苦労だった。
「ここで本当に、これから仕事をしていくのか……」
まだ現実感が薄く、ただ圧倒されるばかりの毎日だった。
それが二週目に入ると、仕事そのものよりも人間関係の難しさに直面することになった。
現地法人や駐在員事務所での業務は、日本とのやり方の違いに戸惑うことばかりだ。日本では『これ、今日中にお願いします』の一言で済んでいたことが、こちらでは『いつまでに必要なんですか?』『なぜ必要なんですか?』と一つひとつ確認される。決して仕事をしたくないわけではなく、仕事に対する前提やコミュニケーションの文化が違うのだ。
現地スタッフとの距離感も悩みの種だった。最初は『日本人の上司として、きっと歓迎されるだろう』などと甘い考えを持っていたが、実際には相手も『この日本人はどんな人間なんだ』と冷静に観察している。日本のやり方をただ押しつけるだけの『ダメな駐在員』にならないよう、常に神経をすり減らした。
そして三週目になると、今度は生活の細かい不便さがじわじわと効いてきた。
『ちょっと気分転換に散歩でもするか』と思っても、日本のように駅前をぶらぶら歩くわけにはいかない。仕事が終わって『じゃあ一人で近所の居酒屋でも行くか』ということも簡単にはいかなかった。
電車に乗って気軽に移動することも、一人で夜の街を歩くことも、深夜にふらっとラーメンを食べることも、本屋の棚を眺めることもできない。
(日本って、ものすごく便利で安全な国だったんだな)
当たり前だった日常のありがたさを、身をもって痛感させられたのはこの頃だった。
だが、四週目を迎える頃になると、不思議と少しずつ景色が変わってきた。
最初はうるさく感じた街の喧騒や、バイクの群れの音が、少しずつ日常の環境音として馴染んでくる。専属運転手のアブドゥルさんとの会話にも慣れ、渋滞も『この時間なら一時間くらいは見込んでおこう』と予測がつくようになった。
現地アシスタントとも、『デヴィさん、これお願いできる?』と自然に声をかけられるようになる。簡単なインドネシア語を覚えて「Terima kasih ありがとう」と笑いかけると、相手も満面の笑みで返してくれる。
(ああ、自分は少しずつ、この国で生活できるようになってきているのかな)
そんな小さな手応えが、心に余裕を生んでくれた。
海外赴任者の誰もが通る道なのだろうと思う。『楽しい』と『日本に帰りたい』という相反する感情が、常に同時に存在しているのだ。
夜、自宅の部屋で一人になったとき、ふと『俺、なんでこんなところで一人で何やってるんだろな』と激しい孤独感に襲われることもある。
しかし翌日になれば、現地スタッフと汗を流しながら働き、同僚たちと近所のフードコートで昼食をつつき、活気あふれるジャカルタの街を見渡しながら、『日本にいたら、絶対にこんな経験はできなかったな』と思える自分がいる。
『海外に赴任してきた』という緊張しっぱなしの感覚から、『ここで暮らしている』という地に足が着いた感覚へ。
この一ヶ月の間に、健一のなかで確実に何かが変わり始めていた。
美咲との過去や、日本に置き去りにしてきたさまざまな出来事など、もう遠い世界のことのように思えてきた。
健一は缶ビールを飲み干すと、明日からの仕事を思い描きながら、静かに息を吐いたのだった。
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