第110話 ◆ 美咲の崩れ去るプライド
「お願い、智樹さん! 何かの間違いよ! 身辺調査なんて、誰かが私をハメようとして嘘を吹き込んだのよ!」
高級ホテルのラウンジ。美咲は必死の形相で、目の前に座る婚約者——佐々岡智樹の手を握りしめた。智樹の好きだった大きな瞳を涙で潤ませ、同情を誘うようにまっすぐ見つめる。計算し尽くされた可憐な表情で、縋りつくように声を絞り出した。
「……誰かが君をハメようとした?」
低く繰り返した智樹の声には、呆れと苛立ちが滲んでいた。
「まだ、そんなことを言うのか」
智樹の目は氷のように冷ややかだった。美咲の手を、汚いものでも払うように振り払う。
「見苦しいよ、美咲。興信所が調べた報告書、僕も見たんだ。学生時代の派手な男性関係に、カードの借金履歴、それに……派遣先の会社での二股交際まで、全部事実だろう?」
「そ、それは! でも、過去のことで……! 今は智樹さんだけを愛してるわ! お義母様にも私からちゃんと説明するから!」
「無理だよ。お袋は激怒してる。『あんな嘘だらけの女、絶対に佐々岡家の敷居は跨がせない』ってね。それに、君の派遣契約が打ち切られた理由も分かった。元カレの『佐藤健一』に振られて会社で騒ぎを起こしたんだって?」
その瞬間、美咲の顔から血の気が引いた。
「え?……違う。私は騒ぎなんて起こしてない」
「佐々岡技研の専務の息子である僕と結婚して、玉の輿に乗ろうとしたんだろうけど……浅はかだったね。婚約は白紙だ。慰謝料は請求しないでおいてあげるよ。二度と連絡してこないでくれ」
智樹は吐き捨てるように言うと、伝票を持って席を立ち、一度も振り返ることなくラウンジを去っていった。
一人残された美咲は、震える手でカップを掴もうとした。だが、怒りで手がぶるぶると震え、カップの中身をこぼしてしまった。先程の会話が聞こえていたであろう周りの客からの冷ややかな視線が突き刺さる。
(なんで……? なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの……!?)
玉の輿に乗って、自分を捨てた健一を見返してやるはずだった。すでに派遣の仕事は退職の手続きを済ませており、来月からは智樹との新生活が始まるはずだった。都心の新築マンションで暮らすことを思い描き、それを周囲に自慢する気満々だったのだ。
仕事も、これから始まるはずだった新生活も、将来の約束も、すべてを失った。
眩暈を覚えながらホテルを出た美咲は、猛暑の街をあてもなく彷徨った。汗でせっかくの巻き髪が崩れ、メイクがドロドロに溶けていく。
(……全部、あの男のせいだ)
美咲の頭の中に、自分を切り捨てた健一の顔が浮かぶ。
(健一さんが素直に私と結婚していれば、こんなことにならなかった! あの男が私を捨ててジャカルタなんて高飛びしたから……! だから私は焦って、智樹さんに……!)
自分の浪費癖も、二股も、身から出た錆であることなど頭から吹き飛んでいた。美咲の心の中にあるのは、身勝手極まりない健一への逆恨みだけだった。
(逃がさない……絶対に逃がさないわ、健一さん……。私をこんな目に遭わせておいて、自分だけジャカルタで静かに暮らそうなんて許さない……!)
美咲はギラギラとした狂気を宿した目で、スマホの画面を強く睨みつけた。
◇
健一がダメなら、まずは彼の周りからだ。
近くのカフェに入り、クーラーの効いた室内でコーヒーを片手にスマホを開く。
以前の職場で、健一とつながりのありそうな同僚を何人か思い浮かべる。
私自身、職場ではあまり好かれていなかった。今さら連絡を取ったところで、警戒されるだけだろう。
だから、直接聞くつもりはなかった。知っている同僚たちのSNSアカウントを、片っ端から辿っていく。その中から健一とつながっていそうな人を探し、さらにそのフォロワーやフォロー先を辿っていく。
そして――ようやく、健一のSNSアカウントを見つけた。
「……いた!」
すぐにフォロー一覧を開き、ひとつひとつ確認していく。その中に、『佐藤慎二』という名前を見つけた。
「……この人、昨日の!」
画面に表示されたプロフィール写真には、ニュアンスパーマのマッシュスタイルをした爽やかな笑顔が写っている。
美咲の唇が、歪んだ笑みを浮かべる。
「この男……。しらばっくれて私を追い払った罰よ……覚悟しなさい」
◇
「佐藤チーフ、ご予約のお客様は、三番セット面でお待ちです」
スタッフに声をかけられ、慎二は「はーい」と爽やかに返事をしながら三番セット面へと向かった。
カットチェアに腰掛け、クロスをかけられた女性の前には、まだスタッフが立っていた。慎二は営業用のスマイルを浮かべながら、その背中に向かって声をかける。
「こんにちは。本日担当させていただきます、チーフの佐藤です。よろしくお願いします——」
スタッフが横へ退いた瞬間、鏡越しに女性と目が合った。
「……え?」
慎二の動きがピタリと止まった。
そこに座っていたのは、先日、マンションの前をうろつき、声をかけてきたあの女だった。
「……はじめまして、佐藤慎二さん。ネットで指名予約させてもらったわ」
美咲は鏡越しに、思わせぶりな笑みを深めた。先日とは違い、ヨレのない完璧なメイク。だが、その瞳の奥には隠しきれないギラついた執念が宿っている。
(……まじかよ。どうやって店を突き止めたんだよ……! 兄貴のSNSか?)
慎二は背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、プロとして表情を一瞬で作り直した。ここで取り乱せば他の客や店に迷惑がかかる。
「……よろしくお願いします。今日はどのようなスタイルにしましょうか?」
「そうね……毛先を整えて、トリートメントをお願いしようかしら。時間はたっぷりあるから、ゆっくりお願いね?」
ハサミを握る慎二の手元を、美咲の視線がじっと追いかける。コームで髪をすきながら、慎二は努めて平静を保った。
「かしこまりました。……あいにく当店はご予約が混み合っておりまして、施術は手短に済ませていただく形になりますが、ご了承ください」
「ふふ、冷たいのね。先週マンションの前で、佐藤健一さんの弟さんですかって聞いた時は、『知らない』なんてしらばっくれてたくせに。やっぱり、健一さんの弟さんなんでしょう?」
美咲は声を潜め、鏡越しの慎二を睨みつけた。
「健一さんの連絡先、教えてちょうだい。LINEもブロックされてて繋がらないの。彼、私にひどい誤解をしてるのよ。ちゃんと話せばやり直せるはずなの」
「……お客様。申し訳ございませんが、プライベートな個人情報につきましてはお答えできかねます」
「家族でしょう!? 連絡先くらい知ってるじゃない! お願い、教えてくれるだけでいいの。私、健一さんがいないとダメなの……! あの人が急に海外なんて行くから、私の人生ぐちゃぐちゃになっちゃったのよ……!」
次第に感情を高ぶらせ、椅子の上で身を乗り出そうとする美咲。慎二は静かに、だがはっきりと通る声でカットの手を止めずに言った。
「お客様、動かれますと刃物が当たって危険ですので、お静かにお願いいたします。また、これ以上個人的なご相談を続けられるようでしたら、他のお客様のご迷惑となりますので、施術を中断してお引き取りいただくことになります」
「っ……!」
店内には他にも数名の客がおり、静かなBGMが流れている。ここで騒げば警察を呼ばれるのは自分だと察したのか、美咲は悔しそうに唇を噛み締め、黙り込んだ。
慎二は一切の手抜かりなく、淡々と、しかし最速で施術を進めた。予約通り、毛先カットとトリートメントを済ませ、最後にブローとセットまで仕上げる。もともと整った顔立ちに、慎二の技術が加わり、仕上がりは完璧だった。
「お疲れ様でした。お会計は受付で承ります」
「もう二度と来るもんですか!」
逃げるように会計を済ませ、捨て台詞を残して店を出ていく美咲の背中を見送り、慎二は大きく息を吐き出した。額の汗を拭うと、バックヤードへ駆け込み、スマホを取り出した。すぐに健一の名前をタップし、メッセージを打ち込む。
(こっちが午後の二時だから、ジャカルタは昼の十二時か……。兄貴、昼休み中かな?)
『兄貴、やばい。あの女、指名客として俺の店に突撃してきた。完全にイカれてる。連絡先を聞かれた。そっちもマジで気をつけて! 今晩、いつもの時間くらいにビデオ通話で話そう』
程なくして、昼休み中だったのだろう健一から返信が届いた。
『すまないな、迷惑をかけた。詳しくは、今晩話そう。お前こそ、気をつけてくれ』
続けて、もう一通届いた。
『俺も日本の同期に連絡して、少し調べてもらう。何か分かったら、また連絡する』
慎二は、メッセージを見て小さくため息をついた。
(やっぱり兄貴も動くよな……)
スマホをポケットにしまうと、次の予約客の元へと急いだ。
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