第109話 ◆ 美咲の、幸せな婚約期間のはずの因果応報
(どうして、こんなことになってしまったのよ! やっと『優良物件』を捕まえたと思っていたのに!)
自宅の狭いアパートで、美咲は、テーブルの上に置いたスマートフォンを手に取ったまま、何度目になるかわからないほど画面を確認していた。
新しいメッセージは来ていない。
さっき送った『今日はお仕事、何時くらいに終わりそう? 早く会いたい』という何気ないメッセージにも、まだ返事がない。
一週間前には、こんなことはなかった。
仕事が終われば電話をくれたし、待ち合わせて食事に出かけたりしていた。帰りが遅くなるときにはビデオ通話で顔を見たり、実にマメに連絡をくれた。
休みの日には、お互いの家に泊まって、次はどこへ行こうか、結婚したらどんな家に住もうか、そんな話をするのが楽しかった。
結婚式は、一年後を予定していたが、少しでも一緒にいたいからと、彼の希望で、できるだけ早く一緒に暮らすことにして、新居探しをしていたのに。
そのことを考えるだけで胸が弾んだ。贅沢な結婚式、広いマンション。少しでも美しくありたいとエステにも通い始めた。
ところが今は、スマートフォンが着信を告げると、胸が締めつけられるような不安を覚える。
彼の母親が興信所を使った。その事実を知ったのは、ほんの少し前のことだった。
そして、調査結果に出てきたのが、『佐藤健一』という名前だった。美咲は婚約者から健一の名前を聞かれた瞬間、嫌な記憶を無理やり引っ張り出されたような気がした。
『佐藤健一』、おしゃれで、容姿も整った、派遣先企業のエリート社員。そして、自分がかつて『関係を持った』男。
健一には、結婚を一ヶ月後に控えた婚約者がいた。それを知ったうえで自分から誘ったのだから、周りから何と言われようと仕方がないのかもしれない。
けれど、美咲自身は、健一との関係をそれほど悪いものだとは思っていなかった。
少なくとも、健一が自分を求めている間は、彼も私と一緒にいることを選んでいた。一緒に温泉旅行にも出かけたし、週末にはアパートに泊まることだってあったのだから。
関係を持っている間は、『もしかしたら、健一さんとの未来もあるんじゃないか』そう思っていた。だから、結婚が破談になった彼から、突然、別れを告げられたときは、本当に腹が立った。
「君と本気で付き合う気はない」
「婚約者がいた自分と付き合うような女との交際は考えられない」
今でも、その言葉だけは鮮明に覚えている。
あのときの健一の顔まで思い出すと、今でもお腹の底が熱くなる感じがする。
自分だって楽しんでいたくせに、私だけを悪者にして、勝手に終わらせたくせに。
あまりにも悔しくて、気がついたら手が出ていた。彼の頬を叩いた手がジンジンと熱を持っていた。
その後は、彼のジャカルタ赴任が決定して、最後の日に会社に挨拶に出社した彼を捕まえて、こちらから『私、結婚するんですから!』と、はっきりと別れを告げてやった。
あれが最後だった。その後、健一はジャカルタへ赴任し、私は、派遣の仕事を辞めた。
結婚することになったから、と会社には伝え、たいして交流もなかった同僚たちには、高価な婚約指輪をチラつかせながら婚約を報告してやった。『勝ち組』の私は、あなたたちの噂するような、『他人の結婚を壊した泥棒猫』なんかじゃない。社交辞令としての周囲の祝福を受けて派遣先を去った。
婚約者との新しい生活が始まるのだと思っていたし、実際、今の婚約者と出会ってからは、健一のことを思い出すこともほとんどなかった。
だからこそ、腹が立っているのだ。
(どうして今になって、あの男の名前が出てくるのよ! たった二ヶ月程度、付き合ったというか、関係を持っただけの相手なのに!)
美咲は唇を噛み、スマートフォンをテーブルに置いた。
『ごめんね。お袋が結婚に反対しているんだ』
一週間前のことだった。突然、婚約者からそう言われて、私は固まってしまった。それと同時に『ああ、だからか』とも思ったのだ。
家族に紹介したいと自宅に招かれた食事会での、婚約者の母親の視線はひどく冷たかった。笑顔など一度も見せず、ただ淡々と、私の過去を探るような質問ばかりが続いた。
私だって二十四歳だ。この年齢で、過去に交際した男性がいることなんて珍しくもないだろうに。それなのに、まるで自分がとんでもない女であるかのように扱われていることがひどく腹立たしかった。
(でも、まだ大丈夫。婚約が破談になったわけじゃないわ......)
そう自分に言い聞かせる。
彼は私のことが大好きだ。それは間違いない。母親に何を言われたとしても、彼まで私を嫌いになったわけではない。
だったら、『誤解』を解けばいいだけだ。私は解決策を考えた。
まず、興信所の調査で問題になっているのは、健一との関係だ。なら、その健一本人と話をしてもらえばいい。
『健一さんとは、正式に付き合っていたわけじゃない』
『婚約者がいたとしても、結婚していたわけじゃない』
『だから、私がしたことは「不貞」じゃない』
そう言ってもらえればいい。
少なくとも、健一は自分と付き合うつもりはないと言って別れたのだから、今さら私との関係を蒸し返したいとは思わないはずだ。
まして、健一には今の生活がある。
ジャカルタに赴任していることも、美咲は知っていた。派遣社員として働いていた会社なのだから、赴任先くらいは分かる。現地の子会社の住所も、少し調べればすぐに出てきた。
ジャカルタへ会いに行くことだって、できないわけではない。だが、個人的な話をするために、勤務先へ押しかけるなんてできるはずがないのだ。それこそ、噂が再燃するだけではないか。
それに、肝心の健一の連絡先を知らないのだ。以前使っていたLINEは、いつの間にか退会されていた。
電話をかけてもつながらない。ジャカルタ赴任とともに、番号そのものが解約されているらしい。
美咲は、そこで初めて困った。
(健一さんに直接話をするには、どうすればいいのだろう......。なんとかして、婚約者に『潔白』を証明してもらわないと!)
そのとき、ふと頭に浮かんだのが、『健一の弟』の存在だった。
健一から何度か聞いたことがある。『美容師をしている弟がいる』、と。
健一は婚約者と、購入したばかりのマンションで暮らしているとも言っていた。彼が婚約者とどんなところで暮らしているのか、少し気になって、以前、そのマンションの住所を検索したことがある。
当時の逢瀬で、健一の自宅へ招かれることはなかった。「婚約者と暮らしているから」と言われたときのことを、今でも覚えている。
『その女』は、一緒に暮らしているのに、自分は、家に招いてももらえなかった。その事実は、当時の美咲の中に小さな棘のように残っていた。
健一がジャカルタへ赴任する少し前、退職を控えていた私は、職場でこんな話を耳にしたことがあった。
「佐藤に、赴任中だけマンションを貸してもらおうと思ってたらさ、『弟が住むことになった』って断られたよ。残念!」
(健一さんがジャカルタにいる間、弟さんがあのマンションに住んでいるってことよね)
そのときは、たいして気にも留めなかったが、今になって、その会話を思い出した。
(弟さんなら、お兄さんの連絡先を知っているはずだわ!)
そう思った私は、以前調べたことのあるマンションの住所を頼りに、そのマンションを訪ねた。しばらくマンションの前で待っていると、二十代くらいの男性が何人か帰ってきた。
「すみません、佐藤健一さんの弟さんをご存じありませんか?」
そう声をかけてみるものの、怪訝そうな顔をされるばかりだった。
中には、私が自分に声をかけていることを逆ナンだと勘違いして、部屋に誘ってくる人までいた。
「違いますから!」
そう断るのにも、だんだん疲れてきた。
(もう、帰ろうかな……)
諦めかけた、そのときだった。マンションの入口に、二十代半ばくらいの男が姿を現した。おしゃれなニュアンスパーマのマッシュスタイルに、整った顔立ち。これまで声をかけた男性たちとは、どこか雰囲気が違っていた。
私は、その男を見つめた。
(……この人で最後にしよう)
少し迷った後、そう決めて、私は男に声をかけた。
「すみません。佐藤健一さんの弟さんですか?」
男が怪訝な顔で立ち止まった。
そして、美咲の顔を見た瞬間、ほんの少し眉をひそめた。
「……は?」
「佐藤健一さんの弟さんですよね?」
もう一度尋ねると、男は怪訝そうな顔をした。
「誰ですか? 知りませんけど」
『この人も違ったのか』という諦めと、勝手に湧き上がってくる苛立ちで、思わず男の顔を睨みつけた。
けれど男は、それ以上何も言わず、そのままマンションに入って行ってしまった。
美咲はしばらく、その場から動けなかった。
ただ健一の連絡先を聞きたかっただけなのに……。彼に一度、話をしてもらいたかっただけなのに。それさえも、こんなに難しいのか。
夜の街をアパートに向かって歩きながら、美咲は何度も考えた。『自分は、そんなに悪いことをしたのだろうか』、と。
確かに、健一には九年付き合っているという結婚式を一ヶ月後に控えた婚約者がいた。
でも、健一だって私を求めていたのだ。それなのに、どうして全部私のせいになるのだろう。
今の婚約者だって、私を愛してくれている。一年後の結婚を夢見て、今度は婚約者だけを大切にしていこうと思っているのに。
『私は何も間違っていない』、そう思いたかった。だからこそ、ここで諦めるわけにはいかなかった。
健一にさえ会えればいい。事情を話して、ほんの少し協力してもらえば、そうすれば、きっと元に戻れる。
今までと同じように、婚約者と笑って同棲生活をスタートして、一年後の晴れやかな結婚式の日を迎えられる。
美咲はそう信じながら、もう一度スマートフォンを握りしめた。
健一の連絡先は、どこにもないけれど、まだ方法はあるはずだ。絶対に、諦められない。
『勝ち組』の結婚を目前にして、すべてを失うなんて――そんなことだけは、絶対に受け入れられなかった。
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