第108話 ◇ 兄弟の会話と、昔の女の陰
ジャカルタの猛烈な湿気と熱気が残る夜。アブドゥルさんの運転する送迎車で、オフィスから自宅のコンドミニアムへと戻った俺は、シャワーを浴びてからリビングのソファにどかりと腰を下ろした。冷房の風を浴びながらPCを立ち上げ、日本の弟——慎二とのビデオ通話をつなぐ。
『お、兄貴。お疲れ。ジャカルタはどうよ?』
呼び出し音が鳴って間も無く、いつもの定位置であるリビングのソファに座る慎二が映し出された。
「お疲れ。相変わらず毎日蒸し暑いよ。食事はナシゴレンとかミーゴレンとか、ナシチャンプルばかり食ってる。職場は現地スタッフも陽気でやりやすいけどな」
『へえ、案外順応してんじゃん。……あ、そう言えばさ』
画面越しの慎二が、ふと思い出したようにビール缶を傾けながら言った。
『先週の日曜の夜さ、見たことのない女の人がマンションの前をウロウロしててさ。誰かを訪ねてきたのかなと思って通り過ぎようとしたら、急に話しかけられたんだよ』
「……うちのマンションの前で?」
『そう。「佐藤健一さんの弟さんですか?」って聞かれたから、「は? 誰ですか? 知りませんけど」って答えたんだよ。だって不気味じゃん、知らない人だし。そしたらさ、逆に睨まれてさ。しばらく徘徊してたみたいだけど、どこかへ歩いて行ったよ。なんなんだよ、あの女……』
慎二の不満げな声に、俺は胸の奥で嫌な予感が芽生えるのを感じた。
「その女性、どんな見た目だった?」
『うーん……よくいる明るめの茶髪で、肩より少し長いくらいの巻き髪だったかな。美容師の職業柄、ちゃんとヘアケアしてそうな、髪質は良さそうだなって印象。目は大きくて可愛い系の美人さんだったよ。身長は、すみれさんより少し低い感じかな。気が強そうな印象だったけど……まあ、なんか男好きのするタイプだったね』
「……そうか。それはもしかしたら、『須藤美咲』かもしれないな」
『は? 『美咲』って……兄貴の婚約破棄の原因になった、あの女!?』
「……ああ。俺も同期からのメールで今日知ったばかりなんだが、どうやら婚約話が流れそうなんだ」
『え! あの、取引先の専務の息子と結婚するって話が!?』
「ああ。佐々岡技研の専務の奥さんが興信所を使って身辺調査をしたらしい。その結果が真っ黒だったってことで、結婚には大反対されているらしいんだ」
『え〜……まあ自業自得だけどさ。本人同士の問題だろ。結婚するかどうかは、最終的には相手の男が決めることだと思うけどなあ』
「まあそうだが、あそこは親族経営の中堅企業だからな。問題のある嫁じゃ困るんだろうよ。……でも、なんでお前を探してるんだろうな?」
『そうだよね。兄貴に連絡をとりたきゃ会社に聞けばいいだけだしな。ジャカルタに赴任したって知ってるわけでしょ?』
「彼女、うちへの派遣はもう終了してるはずだ。婚約したのを機に仕事も辞めるって宣言したらしい、という噂は聞いてる」
『うわあ。じゃあ結婚が流れたら最悪じゃん。また兄貴とよりを戻そうとしてるのかな? 最悪じゃん』
「さすがにそれはないだろう。俺はきつめに別れ話をして、ビンタをくらったんだぞ。今さらだろう」
『まあ、女心は複雑だからなあ』
「何言ってんだよ。お前、彼女もいないくせに」
『は!? 自分がモテるからって、モテない男をいじんないでくれますか!』
「ふん。お前、モテないわけじゃないだろ。ただ面倒だから付き合ってないだけだろうが」
『いいんだよ! 俺は仕事が楽しいんだからさ!』
強がるように言い返す慎二の顔を見つめながら、俺はふと、長年胸に引っかかっていた問いを口にしていた。
「……慎二。お前……まだ、すみれが好きなのか?」
『は!? なに言ってんのさ! バッカじゃないの!?』
「だって、お前の初恋はすみれだろう?」
『……なんだよそれ。……なんで知ってんだよ』
「昔、母さんが言ってた。慎二の片思いだろうって」
『は!? あんのババア! 全然違うわ! 確かにすみれさんのことは好きだけど、それは家族としての『好き』だよ! 何を勝手に恋愛ドラマを妄想してんだよ! 兄貴も真に受けてんじゃねえよ!』
「……そうなのか? ……良かった。ずっと、申し訳なかったんだ」
『は!? なに考えてんだよ! すみれさんと話す俺を見て、ずっとそんなふうに思ってたのかよ!』
「だって、お前……高三の初対面の時から、すみれにすごい懐いてただろう。だからさ……」
『ああ、それは、まあな。でも俺にとっては「姉」みたいなもんだっただろうが!』
本気で嫌そうに頭を抱える慎二の姿を見て、俺は心の底から肩の荷が下りるのを感じていた。
「とにかく、美咲には気をつけてくれ。目的がわからないだけに、もし声をかけられても無視するに限る。たとえお前が俺の弟だとバレたとしても、絶対に二人っきりにはなるなよ。いいな?」
『ああ、わかってるって。ガン無視するから安心してよ。これでも普段から色んなお客さん相手にしてる接客業だからさ、そのあたりのあしらい方は大丈夫だって』
「……まあ、お前なら大丈夫だとは思うけどな。とにかく、絶対に油断するなよ」
『はいはい、了解。兄貴こそ、ジャカルタで変な病気に気をつけてよね』
画面の向こうで軽口を叩く慎二に「じゃあな」と声をかけ、通話を切った。
静まり返った部屋の中、俺はディスプレイの暗い画面を見つめたまま、重い息を吐き出す。
(美咲……一体、何が目的で慎二の前に現れたんだ……?)
しばらく考えた末、俺はスマホを手に取ると、吸い寄せられるようにInstagramを開いた。
異国の鮮やかな風景や、旅の途中で切り取られた一枚一枚の写真。画面の中の『テディベア』は、俺の知らない場所で、俺の見たことのない顔で息づいている。
俺はただ、遠く離れた彼女の投稿を黙って見つめ続けていた。
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