第105話 風を追う者と、焦燥の理由
石段を降りようとする大原さんの足取りは、どこか覚束なく見えた。脱いだ衣服を綺麗に畳んで傍らに置いていた彼は、自分の名を呼びながら駆け寄ってくる私たちに気づくと、驚いたように目を見開いた。
「小川さん! どうしてここに!? それに、どうしたんですか、そんなに慌てて」
「そんなに慌ててって、大原さんがガンジス川で沐浴しようとするからですよ!」
「えっ!? あの、それが何か……どうかしましたか?」
「だって! そんなにフラフラされているのに、ここで沐浴なんてしたら……体調は大丈夫なんですか!?」
「あの……それは、どういうことでしょうか?」
大原さんはキョトンとした表情で、逆に不思議そうに聞き返してきた。
そこで、コウさんが苦笑いを浮かべながら、大原さんに優しく尋ねた。
「なんだか、僕たちが思っていたのと違う印象だね。大原さんはただ、純粋に沐浴がしたくてここに来たんじゃないのかな。違うかい?」
「あ、はい。……あの、コウさん、お久しぶりです。先日はメンバー限定のライブ配信を拝見しました。私のせいでご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
コウさんの存在に気づいた大原さんは、トランクス一枚の姿で深く頭を下げた。そして——そこでようやく自分がほぼ下着姿であることに気づいたのか、急に慌てだした。
「あっ! す、すみません! こんな格好で……!」
私とナナちゃんも、急に視線をどこへ向けていいのか分からなくなり、その場に微妙な空気が流れた。
「それで、大原さんは本当に沐浴をするかい? ネット情報では水質汚染のリスクも高くて危険視されているけれど、大丈夫? 俺なんかは、沐浴後に体調を崩した後のことを想像すると、面倒事の予感しかしないけれどね」
コウさんが、大原さんの沐浴に対して率直な反対意見を口にする。
「ああ……はい。まあ、そうですね。その点は気になってはいたんですけど、実際に沐浴して何事もなかった人もたくさんいるみたいですし……。でも、なんだか、さっきまでは勢いで『ここで沐浴したら自分が変われるんじゃないか』という思いに突き動かされていたんですけど……みなさんとお話ししたら、冷静になれました。そうですよね。旅の途中で体調を崩したら一大事ですよね」
「うん。体に傷がなければ、多少は感染症のリスクは下がると言われているけれど、沐浴後は真水をかぶった方がいい。バクテリアがウヨウヨいるらしいからね。不用意に目を擦ったりしたら、結膜炎になってしまうよ」
「はい……なんだか、急に怖くなってきました」
「まあ、君は現地の人々や信仰に敬意を持って沐浴しようとしているわけだし、冷やかしじゃないからね。先日もあるYouTuberの不躾な振る舞いが炎上していたけれど、ここはヒンドゥー教徒にとっての聖地だからさ、敬意は忘れないでおこう。体調を崩すリスクも含めて、自己責任にはなるけれど」
「はい。ここで祈りを捧げているみなさんを見ていると、本当に大切な場所なんだなと感じるんです。だから自分も沐浴すれば何か新しい自分になれるのかなと思ったんですが……そうですね、やめておきます」
「うん、それが賢明だと思うよ。じゃあ、まずは服を着ようか。女性陣が目のやり場に困っているようだからね」
コウさんが私たちをチラリと見て苦笑した。
「あ、あっ、すみません!」
大原さんは顔を赤くしながら、慌てて洋服を身につけ始めたのだった。
◇
私たちは大原さんを誘い、一緒にホテルへと戻ることにした。途中の売店で買い求めたスナック菓子とマフィンのような焼き菓子を部屋のソファスペースに広げ、温かいコーヒーを淹れてテーブルを囲む。
大原さんは、以前私に話してくれた内容も含め、改めてコウさんとナナちゃんに向かって自己紹介を始めた。
大原さんは今年で二十五歳。以前は服飾デザイナーとして働いていた。
彼が勤めていたのは『AUREL VANT』という高級百貨店やセレクトショップで扱われる人気メンズブランド。『静かな気品』をコンセプトにした洗練されたクラシックスタイルで、メンズファッション誌でも頻繁に目にする憧れのブランドだった。
そこに新卒で入社して四年、充実した毎日を送っていたそうだが、ある日、尊敬する可愛がってくれていた先輩が独立することになり、一緒に来ないかと誘われたのだそうだ。
その先輩は営業部長で、奥様もまた『VERUS』というメンズブランドのデザイナーを辞めて立ち上げに参加するという。新しく立ち上げるブランドの名は『KAZE《カゼ》』。
「流行ではなく、一生着られる一着」をコンセプトに、和の美意識を現代風に取り入れた日本製のメンズ服を、世界へ向けて発信していく計画なのだと大原さんは熱っぽく語った。
「それで、ブランドの立ち上げ準備期間を利用して、インスピレーションを磨くために三ヶ月ほどアジアを旅しているんです」
大原さんの話を聞きながら、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。
わずか六週間ほど前まで、私もレディースのアパレルブランドのパタンナーとして働いていた。同業者であり、同年代の彼が、自分の意志で未来を見つめ、前向きにインスピレーションを求めて旅をしている姿。それに引き換え、今の自分はどうだろう。
(私のこの旅は、将来にとって何か意味のあるものなんだろうか……? ただの『逃避』ではないのかな……。私はちゃんと前に進めているんだろうか……)
サールナートで澄み渡っていたはずの心が、急激に混濁していく。
次々と押し寄せてくる焦りと漠然とした不安に、私は息が苦しくなるのを覚えずにはいられなかった。
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