第103話 デリバリーピザと、聖地の風
結局その夜は、外に出る気力も、本格的なインド料理を食べる気にもなれずにいた。そんな私たちの様子を察して、コウさんが優しく提案してくれた。
「今夜は外に出ないでデリバリーピザでも頼もうか? 部屋で三人だけでのんびり食べようよ。たまにはこういうのもいいんじゃない?」
「えっ、デリバリーが頼めるんですか?」
「うん。『Domino's Pizza ドミノピザ』や『Pizza Hut ピザハット』もあるから、アプリを使えばホテルまで配達してくれるよ。ガート沿いには薪窯ピザが有名な旅行者に人気のカフェもあるんだけど、今夜は無理して出かけなくてもいいからね」
正直、コウさんの提案は涙が出るほどありがたかった。今夜はもう、あの熱気溢れる外の世界に出たくない気分だったのだ。もし一人でバラナシに来て体調を崩していたら……と思うと、ゾッとしてしまう。
「じゃあ何を頼みましょうか! アプリのメニューを見ながら決めましょう」
スマホの画面を覗き込みながら、ナナちゃんが声を弾ませる。
「あれ……? ナナちゃん、この『パニール』ってなに?」
「えっとですね、パニールはインドでよく使われるフレッシュチーズのことらしいです! 豆腐やモッツァレラチーズみたいな弾力があって、噛みしめると旨みが広がるんですって」
「へえ、美味しそうね。メニューを見ていると、タンドリーチキン風の具材やスパイシーなソースを使ったインド独特のピザが多いのね」
結局、私たちはピザハットのメニューから、本格的なタンドリースパイスでマリネしたチーズが乗った『タンドリーパニールピザ』と、クリーミーでバター風味豊かなマクニソースで煮込んだチキンが乗った『ナワビ・ムルグ・マクニ・ピザ』、さらに『BBQチキンウィング』とコーラをオーダーした。
「あれ? 私たち、なんだかんだ普通に食欲ありますね! すみれさん!」
「ふふふ、本当にそうね。インドならではの特別なメニューだから興味が湧くし、何よりこのお部屋で食べられると思うと安心して、お腹が空いてきたのかもしれないわね」
コーヒーを飲みながらのんびりと過ごしていると、注文からしばらくして、コウさんがロビーでピザを受け取ってきてくれた。
箱を開けると、スパイシーで甘香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。
その夜は、ムンバイのコンドミニアムでお留守番をしてくれている片山さんともオンライン通話を繋ぎ、画面越しに四人でワイワイと賑やかな夕食を楽しんだ。
「みんな元気そうで安心したよ。楽しい旅ができてそうだね」と画面の向こうで微笑む片山さんの存在も、なんだかとても心強かった。
お腹いっぱい食べて、心もすっかりほぐれた。
あとはふかふかのベッドで、ぐっすりと眠るだけだった。
◇
翌朝は、自分でも驚くほどすっきりと目覚めた。
洗面と着替えを済ませ、静かなソファスペースへ向かうと、今朝は私が一番乗りだった。
まもなくして、コウさんとナナちゃんも晴れやかな表情で姿を現した。
「おはようございます、コウさん。すみれさん」
「おはよう。二人とも、よく眠れたみたいだね。顔色がすごく良くなっていて安心したよ」
コウさんにそう言われ、私とナナちゃんは顔を見合わせて思わずクスリと笑い合った。昨夜のあの身体の重さが、本当に嘘のようだ。
ホテルで朝食バイキングを済ませたあと、私たちは観光へ出かける準備をした。向かうのは、バラナシの北約十キロに位置する仏教の四大聖地の一つ、『Sarnath サールナート』だ。
聖者たちが集うカオスの街から、仏教の始まりの地へ——。
事前にチャーターしておいたタクシーに乗り込み、渋滞もあって四十分ほどかけてサールナートへ向かう。車窓の風景は次第にバラナシ市街の喧騒から、緑の多い穏やかな景観へと変わっていく。
やがて街の喧騒が遠ざかるにつれ、車内にもゆったりとした空気が流れ始めた。体調も万全に戻った私たちは、新たな聖地への期待に胸を躍らせながらタクシーに揺られていた。
「サールナートって、確か古くは『鹿野苑』と呼ばれていた場所ですよね。お釈迦様が悟りを開いたあと、初めて人々に教えを説いた場所なんですって」
車内でスマホ検索をしながら、ナナちゃんが教えてくれた。
「ええ。『初転法輪』の地ね。かつての仲間だった五人の修行者に初めて説法を行ったことで、ここから宗教としての仏教が始まったと言われているのよね」
「そうなんだよ。紀元前三世紀頃、あのマウリヤ朝のアショーカ王が巨大な仏塔や石柱を建ててから大きく栄えたんだ」
コウさんの解説を聞きながら、私は窓の外に広がる青空を見上げた。
生と死の濃密な熱気に満ちていたガンジス川のガートとは異なり、サールナートへ向かう道にはどこかのどかさが漂っている。
整えられた緑豊かな敷地の中に、巨大な円筒形の遺跡がどっしりと佇んでいる。高さ三十四メートルにも及ぶレンガ造りの仏塔——『Dhamek Stupa ダメーク・ストゥーパ』だ。
「わあ……すごい大きさ。それに、静かですね……」
ナナちゃんが感嘆の声を漏らしGoProを構える。
私も思わず足を止め、見上げるほどの仏塔と、青空のコントラストに目を奪われていた。
昨日のガートにあった圧倒的な熱気や生と死の濃密な気配とは対照的に、ここサールナートには、どこか心を洗われるような静寂が満ちている。レリーフに刻まれた緻密な花模様の彫刻や、幾重にも重なった古く赤いレンガの風合いが素晴らしい。
(『くまのスミレ』と、お釈迦さまが初めて教えを説かれた場所か……。お釈迦さまと一緒に写真を撮ったら、きっと素敵な記念になるわね)
木漏れ日が彫刻の凹凸に落とす陰影の美しさに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
仏塔の周りでは、オレンジや赤の袈裟をまとった世界各国の僧侶たちが、静かに祈りを捧げながら時計回りに歩いていた。鳥のさえずりと、葉の擦れ合う音だけが心地よく響いている。
「すみれさん、気分はもう大丈夫そう?」
隣に歩み寄ってきたコウさんが、柔らかい声で尋ねてくれた。
「ええ、おかげさまで。……ここに来て、なんだか心の中までスーッと澄み渡っていくような気がします」
「それはよかった。サールナートは『鹿野苑』の名の通り、昔から静かで穏やかな場所だったんだ。激しいエネルギーのバラナシと、この静寂のサールナート。この二つの対比を感じられるのが、この旅の醍醐味なんだよ」
「本当にそうですね。……昨日は体も心もあんなにつらかったのが、嘘みたいに穏やかな気持ちです」
風が吹き抜け、木々の隙間からあたたかな光が降り注ぐ。
お釈迦様が最初に教えを説いたという歴史の重みと、今目の前にある優しい静けさ。
異国の地で受ける刺激と、それによって癒やされていく自分の心。私は深呼吸をし、この心地よい風を胸いっぱいに受け止めたのだった。
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