第102話 聖地の煙と、重い足取り
ガンジス川でのボート遊覧を終えた私は、独特の雰囲気に呑まれたのか、妙な疲れを覚えていた。
全身が鉛のように重く、気持ちがどーんと沈み込んでいく。かと言って、頭痛がするとか風邪を引いたというわけでもない。
ただ、立ち上る荼毘の煙と生々しい死の気配が、そのまま自分の身体にまとわりついているような、なんとも言えない重苦しさを感じてしまっていたのだ。
ホテルへ戻る道すがら、私は隣を歩くナナちゃんにそっと尋ねてみた。
「ナナちゃん……なんだか急に、身体がだるくなったりしてない?」
「えっ、そうなんですよ。実はボート遊覧の途中くらいから、妙に重だるくて……。もしかして、すみれさんもですか?」
「ええ。気分が悪いわけじゃないんだけど、何かしらね……。とにかく早くシャワーを浴びたいわ」
二人のやりとりを横で聞いていたコウさんが、優しく微笑みながら話し始める。
「それは観光客にはよくあることだよ。ガートでは遺体を焼く特殊な煙や臭いがあたり一面に充満しているから、それを吸い込むだけでも心身に強い負担がかかるらしいよ。それに、マニカルニカー・ガートで圧倒的な『死』の光景を目の当たりにして、精神的にも大きなショックやストレスを受けているんだと思う」
コウさんの説明に、私とナナちゃんは深く頷いた。
「だから、決して二人が弱いわけじゃないよ。ホテルに戻ったらシャワーを浴びて、水分を摂ってじっくり自律神経と身体を休めよう。今日の夕食は、落ち着いてからホテルのレストランで済ませてもいいし、なんだったらテイクアウトでも構わないしね」
「はい。その方が嬉しいかもしれません」
「はい。なんか、外に夕飯を食べに出かける気分じゃないですね……。お清めのお塩を頭からふりたい気分ですもん」
ホテルに戻ると、私たちはすぐにそれぞれの部屋でシャワーを浴び、身体にまとわりついた重苦しい感覚を洗い流すようにシャワーを浴びた。
きれいな服に着替えてソファスペースに出てみると、精神的なものだったのか、不思議なほど身体が軽くなり、気分もすっきりとしていた。
ソファ席では、一足先に着替えを済ませたコウさんが、静かにコーヒーを味わっていた。
「すみれさん、大丈夫そう? 少しはすっきりしたかな」
「あ、はい。ご心配をおかけしました。今は不思議なほど身体が軽いです。一体なんだったんでしょうね」
「まあ、ガートはなかなかにエネルギーの濃い土地柄だからね」
「コウさんは……初めてここに来た時も平気だったんですか?」
バラナシを訪れるのはこれで三度目だというコウさんに尋ねてみる。
「うーん。僕は大学二年の時に初めて来たんだけど、現地に住む友人と一緒だったからかな。割と自然に受け入れられたんだ」
コウさんは八年前、十九歳だった当時のことを思い出しているかのように語り始めた。
「その時、友人に教えられたんだよ。ヒンドゥー教の死生観では、バラナシで没してガンジス川で荼毘に付されることは最高の幸せであり、魂の解放――つまり『解脱』を意味するんだって。故人が次の世界へ旅立つおめでたいことだから、残された家族は公の場では泣かないのが決まりなんだ」
「えっ……ご家族は泣かないんですか?」
「うん。涙を落とすと故人の魂が地上に未練を残してしまうと信じられているからね。火葬には男性親族だけが参列して、悲しむというよりはどこか淡々と儀式が進んでいくんだよ。ただ——」
コウさんは一瞬言葉を切り、カップを静かにテーブルに置いた。
「僕が訪れた時、小さな子を亡くしたご両親らしい人たちが、人目もはばからずに泣いていてさ。地域や宗派にもよるけれど、幼い子どもや妊婦さんは火葬せず、そのまま水葬として川へ還す習慣が残る地域もあるんだ……教えがどうあれ、やっぱり我が子を失った悲しさは世界共通なんだなって痛感したよ。日本人である僕たちにとって、目の前で家族が火葬されていく光景は、やっぱり複雑で重いものがあるよね」
「そうだったんですね……」
「死生観の違いに直接触れるだけでも、心にはずしりと重いものが残るんだ。だから、初めてそれを肌で感じた二人が体調を崩したのは、すごく自然な反応なんだと思うよ」
コウさんの温かい言葉と静かな眼差しに触れ、私の胸の奥に残っていた重苦しい気分が少し軽くなった気がした。
そこへ、シャワーを浴び終えてすっきりした表情のナナちゃんがソファスペースに現れた。
「あれ? すみれさんも、さっきより顔色が戻りましたね! 私も不思議なくらいすっきりしています」
「ええ、私も今はもう大丈夫。さっきまでの倦怠感が嘘みたいに消えた気がするの。不思議よね……あの場の雰囲気に呑まれてしまったのかしら」
「分かります!『死』をあんなに身近に感じちゃって、心が受け止めきれなくなっちゃったんだと思います。これまでYouTubeで何度も見てきた風景でしたけど、自分が実際に体験した現場の空気感はまったく違いました。……正直、あの場所でカメラを回して撮影するなんて、私には無理でした」
落ち込むでもなく、素直に自分の感情と限界を認めるナナちゃん。
そんな彼女に、先輩クリエイターでもあるコウさんが温かい声をかけた。
「分かるよ、ナナちゃんの気持ちは。でも、それでいいんじゃないかな。動画の配信スタイルなんて人それぞれだし、無理に重いドキュメンタリー調で攻める必要もないだろう。ナナちゃんのファンだって、そんなドキュメンタリー動画が見たいわけじゃないはずだよ」
「はい。私もそう思います。私は私のスタンスで、見てくれる人が楽しくなる動画を作っていきます!」
迷いを振り切ったナナちゃんが、晴れやかな笑顔で言い切った。
自分の足で立ち、自分の言葉で未来を選び取っていくその姿は、とても格好よかった。私は胸の奥で、ほんの少しの羨ましさと眩しさを覚えずにはいられなかった。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




