羽は、二人を包む星となって
路地に足を踏み入れると、俺はもう一度、あの粘ついた気配を探した。
――いた。
二本目の街灯の陰。
グリフォンは、俺たちが逃げた方向を追って、まっすぐこちらへ向かってきていた。
俺は月菜のほうを振り返って、こくりと頷く。
月菜も真剣な表情で頷き返した。
「ルナちゃん! 信じてるからねっ!」
「うんっ!」
「絶対、あてるからねっ!」
「うんっ!」
「あたらなかったら、ごめんっ!」
「うぇっ」
ジャージ姿の月菜が「あたらなかったらごめん」を残して、角の向こうへ消えていく。今、なんて言った。あて、あて、あてないと駄目なんだよ月菜おねえちゃん。
しかしもう、重い虚しく月菜は行ってしまった。俺は、路地の中央へ、一人でぽつんと歩み出る。
我ながら、なんて頼りない小さな体。
震える膝。
この足じゃ、逃げ切れない。
だからこそ――おとりに、なれる。
「――グリフォンさん!こっちだよーっ!」
精一杯の声を張り上げる。
鈴を転がすような、俺のものじゃない少女の声が、夜の路地を貫いた。
二本の街灯の向こうで、赤い瞳が、ぎらりと光る。
――来る。
そう思った瞬間、グリフォンが跳んだ。
翼を折りたたんで、狭い路地を一直線に切り裂く。
速い。
速い、速い、速い。
こっちの想定より、ずっと速い。
俺は路地の奥――月菜のいる方向を、目だけで確認した。
あと数歩。
もう少しだけ、引きつける。
嘴の先の唾液まで見える距離まで。
「おねえちゃん!いまっ!」
叫ぶと同時に、俺は壁際へ身を投げた。
ほぼ同時に、路地の奥から月菜の声が響く。
「レイっ!」
月菜の杖の先で、青い宝石がぱっと明滅する。
横に跳びながら見る。
温かい光の線が、夜の路地を、一直線に貫いた。
当たる、と思った。
――だが。
グリフォンは、俺が飛び退く一瞬を見逃さなかった。翼をわずかに広げて、俺を追いかけるように、しなやかに体をひねる。獣の巨体が、信じられない柔らかさで軸をずらす。
光は左脇をかすめ、羽根を数枚焦がしただけで、そのまま反対側の壁へ突き刺さった。
「うそっ……!?」
月菜の悲鳴に近い声。
俺も、息を呑む間もなかった。
避けた勢いのまま、グリフォンはこちらへ向き直る。
金色の瞳が、目前で見開かれた。
鋭い嘴が、闇を裂いて、俺の胸めがけて、迫る。
――まずい。
避けられない。
俺は反射的に目を閉じ、両腕で顔を覆った。
しまった。
おとりになるなら、防ぐ手段まで考えとけよ、俺のばかっ。
ぱぁんっ、と澄んだ音が、夜に響いた。
何も感じない。
恐る恐る、目を開ける。
俺の目の前に――シールドが、展開されていた。
グリフォンの嘴はシールドの表面をずるりと滑る。
路地の奥を、はっと見る。
月菜が、両手を突き出したまま、真っ青な顔で叫んでいた。杖を握る手が、ぶるぶる震えている。
「ルナちゃんっ! ルナちゃんっ! ルナちゃぁんっ!」
守ってくれた。
あんなに遠くにいるのに、俺の前に正確にシールドを出している。
シールドに弾かれたグリフォンが、大きくよろめく。
その時。
俺の視界の端に、丸い光が映る。
路地の角。
夜の街灯を、ぼんやり映している――丸い、カーブミラー。
――そうだ。
そうだよ。
「月菜おねえちゃんっ!」
俺は、精一杯の声で叫んだ。
「かがみーっ! かがみをねらってっ!」
「えっ……!?」
「かがみっ! そのっ、まるいっ、あそこのっ、まるいっ、みらーっ!」
「かがみ」しか出てこない自分の語彙力に泣きそうになる。それでも月菜の視線が、俺の指の先を追った。
「あっ……! あっ、あっ、あーっ! なるほどねっ!」
月菜がぽん、と手を打った。今、この状況で「なるほどねっ」って落ち着いてる場合か、と思ったが、その顔にはもう、怯えが消えていた。覚悟が乗っている。
杖を構え直して、狙いを鏡へ定める。
頼む。
真っすぐ、飛べ。
あいつへ、跳ね返れ。
グリフォンが体勢を立て直す。
金色の瞳が俺を捉えて、嘴を今まさに振り下ろそうとしている。
――間に合え。
「レイぃーっ!!」
月菜の、渾身の叫び。
これまでで、いちばん大きな声。
まっすぐ飛んだその光が、丸い鏡面に、吸い込まれるように――当たった。
眩い、閃光。
カーブミラーが、まるで小さな月になったみたいに、路地全体を白く照らし出した。俺の影も、グリフォンの影も、ぐん、と長く伸びる。
反射した光は、鋭く向きを変えて――
――グリフォンの、真横から、放たれた。
グリフォンの金色の瞳が、大きく、大きく、見開かれた。
何かに気づいたような、驚いたような、そんな目。
光は静かに獣の体を貫いた。
――世界から音が消える。
グリフォンは叫ばなかった。
ただ、大きな翼を一度だけゆっくりと広げる。
金色の瞳がどこか安堵したように細められた。
そしてその体は淡い光へと溶けていく。
羽根が星屑のように舞い上がって、夜の路地いっぱいに優しい輝きが降り注ぐ。
その光は、俺と月菜を包み込む。
路地の奥で月菜がぺたん、と座り込むのが視界の端に映った。杖を胸に抱えたまま、ぽかんと口を開けて光の粒を見上げている。
「……あたった」
月菜がぽつりと呟いた。
「……あたった!! るなちゃん、あたったぁーっ!!」
「うんっ、あたったよぉーっ!」
路地の両端で俺たちは、なぜか同じタイミングで、手を上げて叫んでいた。
撃破の余韻でも感動でもなく、ただ「あたった」ということだけで、二人でわーわー叫んでいた。
その頬に、光の粒がひとつ、ふわりと触れる。
――光の奥から、誰かの想いが、流れ込んできた。
悲しみ。
寂しさ。
そして――。
後悔。
その記憶が、まるで自分自身のもののように、俺の心の中へ静かに溶け込んできた。
気づけば、ここではないどこか別の風景が目の前にあった。




