月夜の中、君に還る
流れ込んできたのは、俺の記憶じゃない。
誰かの。遠い、遠い記憶だった。
――幼馴染だった。
物心つく前から、あいつはいつも私のそばにいた。
家が近くて、幼稚園の頃は毎日一緒に登園した。小学校に上がってからも、放課後になると公園で日が暮れるまで遊んだ。
私が何かうまくいくたびに、決まって得意そうに笑って、わたしの頭へ手を置く。
「よくやった」
「うるさい」
そう言って手を払いのける。
「ちょっと背が高いからって、いい気にならないで」
むっとして睨みつける。
でも、本当は。
その手のひらの温もりが、大好きで。
優しく微笑む目も大好きで。
胸の奥が少しだけ温かくなっていたんだ。
中学校へ入ると、私は思春期になる。
廊下ですれ違うだけで、目を合わせるのが恥ずかしくなった。
彼が「よお」と笑っても、
「うん」
それだけしか返せない。
本当はもっと話したい。
もっと笑いたい。
でも、口を開くと変な声が言葉が出そうで、頬が熱くなるのが怖かった。
彼も少し困ったような顔をするようになった。当たり前だ。あいつは、何も悪くないんだから。
教室の窓から、グラウンドを走る彼を目で追ってしまう。
廊下で彼と友達が笑い合う声が聞こえるたび、意識してしまう。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
いつか。
いつかちゃんと伝えよう。
そう思いながら、わたしは何もできないんだ。
中学三年の秋。
彼が海外へ引っ越すと聞いた。
両親の仕事の都合で、高校からは向こうで暮らすらしい。
もう戻ってこないかもしれない。
その話を聞いた日から、何度も話しかけようとした。
廊下で。
下駄箱で。
部活帰りの道で。
何度も足を止めて。
何度も口を開きかけて。
そのたびに、いつも勇気が出ない。
今さら。
この距離になってしまって今さら。
「好き」なんて、言えるはずがないんだ。
最後の登校日。
放課後の昇降口。
わたしは、下駄箱の前で彼を待っていた。
「あれ、奇遇」
聞き慣れた声。
上履きを袋へしまいながら、少し驚いたように笑っている。
今、言おう。
ずっと好きだったって。
きっと今なら、まだ間に合う。
でも。
言葉が、出なかった。
彼は少し照れたように頭を掻いた。
「なあ」
一呼吸置いて、小さく笑う。
「俺さ、ずっと嫌われたんだと思ってた」
違う。
そうじゃない。
「ほら、もうずっとさ。ガキの頃みたいに話せなかったし」
話したかった。
毎日。
ずっと。
でも、その言葉は涙になって喉の奥へ詰まってしまった。
彼は少しだけ寂しそうに笑う。
「……じゃあ、元気でな」
そう言って。
昔と同じように。
ぽん、と。
わたしの頭へ手を置いた。
あの日と同じ。
公園で笑っていた頃と同じ、優しい目で。
わたしは頷くことしかできなかった。
「好きだった」
その言葉が。
喉の奥で、静かに壊れていった。
彼は手を離し、夕日に染まる昇降口をまっすぐ歩いていく。
一度も振り返ることはなかった。
両手で顔を覆う。
涙が止まらなかった。
どうして。
どうして、言えなかったんだろう。
好きだった。
たった、それだけだったのに。
会いたい。
もう一度だけ。
会いたい。
何度も、何度も心の中で呼び続けた。
光が、静かにほどけていく。
俺は、ゆっくりと現実へ引き戻された。
目の前で、月菜が泣いていた。
路地の真ん中。まだ消え残る光の粒に、静かに包まれながら。
両手で口元を押さえて、大きな瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「……つきなおねえちゃん」
小さく呼ぶ。
月菜は、答えなかった。
ただ、ふるふると首を横に振って、また、ひとつぶ、大きな雫を頬に流した。
月菜の右手のひらへ、ふわり、と光が集まり始めた。
銀色の粒。
淡い金色の粒。
夜の路地を漂っていた無数の光が、まるで帰る場所を見つけたみたいに、ゆっくりと彼女のもとへ集まってくる。
ひと粒。
また、ひと粒。
やがて、それらは手のひらの上で寄り添い合い、小さなひとつの形を結んだ。
それは、透き通った青い雫だった。
月明かりを閉じ込めたような、小さな結晶。
その奥では、少女が伝えられなかった想いが、淡い光となって静かに息づいている。
――初恋のかけら。
月菜は、それを壊れ物を抱くように、そっと両手で包み込んだ。
迷子になった小鳥を迎え入れるように。
冷たい夜風から守るように。
青い光が、彼女の指の隙間から、やさしく零れる。
月菜は、そのまま胸元へ寄せた。
長い旅を終えた誰かを、「おかえり」と迎え入れるように。
俯いた頬を、涙がひと筋流れる。
黒髪がさらりと肩を滑り落ち、月の光を受けて静かに揺れた。
「……いえたら、よかったのにね」
月菜が、小さく呟く。
「……勇気が、出なかったんだよね」
その声は、誰かへ向けられていて。
俺は、思わず息を呑んだ。
月菜は目を閉じたまま、両手の中の青い光へ、そっと語りかけていた。
「がんばったね」
一拍置いて、
「……ずっと、がんばったね」
その言葉に応えるように、青いかけらが、かすかに瞬く。
また一粒、涙が頬を伝う。
会ったこともない。
名前も知らない。
それでも、この子は、叶わなかった子のために泣いているんだ。
届かなかった想いを、自分のことのように抱きしめている。
「……あいたいね」
その一言は、夜風よりも静かに、月明かりの中へ溶けていく。
風が吹く。
優しく。
どこか懐かしい風だった。
まるで誰かが、
「ありがとう」
と微笑んで通り過ぎていったような。
俺は月菜の隣へ歩み寄る。
何も言わない。
言葉なんて、きっと、要らない。
小さな手を、そっと月菜の手の甲へ重ねる。
月菜は目を閉じたまま、小さく頷いた。
きっと、ひとつの初恋は、ようやく還る場所を見つけたんだ。
誰にも届かなかった想いは、小さな青いかけらとなって、月菜の胸の中で、静かに眠りについた。
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