昼の月が見えるなら
目が覚めて最初に見たのは、見慣れた天井だった。寝ぼけた頭で、ここはどこだ、とぼんやり考える。
次に、自分の腕を見た。パーカーの袖から伸びる、少し骨っぽい男の腕。いつも通りの、俺の腕だ。
「……戻ってる」
俺はゆっくり体を起こした。自分のベッド。自分の部屋。窓の外は明るくて、カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
枕元のスマホを掴んで、フロントカメラを起動した。映ったのは寝癖のついた茶髪の、いつもの顔。聞き慣れた声。ちゃんと戻っている。
「……夢、じゃないよな」
一瞬そう思いかけて、すぐに打ち消した。夢にしては、覚えていることが多すぎる。ライラの魔法。鏡の中の小さな女の子。月菜の家のベランダ。ジャージ姿で杖を持つ彼女と、カーブミラーと――あの、誰かの下駄箱の記憶。全部、はっきり残っている。
昨夜、月菜と別れる前に、また会おうと約束した。初恋のかけらは、まだひとつ集めただけ。あと四つ残っている。また夜になったら会いに行く。そう言った俺に、月菜は赤くなった目のまま頷いていた。
「……なんで戻ってるんだ。ひとつしか集めてないのに」
俺は自分の掌をそっと見た。ライラは確か、五つ全部揃えないと戻せない、そういう話をしていたはずだ。それなのに、朝には元通り。ルナになる気配はない。わけがわからないまま、俺は制服に袖を通して家を出た。
「樹くん、おはよう」
昇降口で靴を履き替えていると、真横から声がした。心臓が、ドクンと脈打つ。
顔を向けると、月菜が立っていた。艶やかな黒髪を肩の後ろに流して、いつも通りの制服姿で、少し照れくさそうに笑っている。頬がうっすら赤い。昨日の記憶とは違う、いつも通りの月菜。
固まってしまう。
いつも、どうやって返していたんだっけ?
おはよう、と返せるだろうか。昨日みたいに急にルナの声と話し方になってしまったりして。
その様子を想像して恐怖する。
でも、返さないと変だ。
「……おはよう」
どうにか、それだけ返した。声が少し掠れるが、ルナになる気配は感じられない。
月菜はほっとしたように微笑んで、ぴょこんと頭を下げると、友達のところへ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺はそっと胸に手を当てた。心臓が、まだ静かに鳴っている。
「……これからどうやって、月菜と話せばいいんだよ」
小さく、そう呟いた。
昨夜ジャージで飛び跳ねていた月菜と、今、朝の光の中で挨拶してきた月菜が、同じ子だ。当たり前のことなのに、うまく飲み込めない。それに、自分が今ルナか樹か、咄嗟に考えてしまう。
教室で、どんな顔をすればいいのか。俺は小さく息を吐いて、諦めるように背を向けた。
一時間目も二時間目も、授業はほとんど頭に入らなかった。
昼休み。俺は校舎を出て、裏手へ向かう。緑色のテントの下に、自動販売機が二台並んでいる小さな休憩スペース。いつもは生徒で賑わう場所だが、今は人影もなく、自販機の低いうなりだけが静かに響いていた。
予感は当たった。青い髪、眠たげな目。
ベンチにライラが座っていた。
片手に肉まん。もう片方にはコーンスープ。
膝を揃えて、小さく足をぶらぶらさせながら、
「……はふ、はふ」
真剣な顔で肉まんを冷ましている。
……猫舌らしい。
整った顔立ち。黙っていれば近寄りがたい雰囲気なのに、その姿を見ると妙に幼く感じる。
「……ライラ」
声をかけると、ライラは肉まんをくわえたままこちらを見た。
もぐもぐ。
ごくん。
隣のベンチをぽん、と叩く。座れ、ということらしい。
俺は少し距離を空けて腰を下ろした。
「はい」
肉まんをぱかっと半分に割って、俺へ差し出してくる。
湯気の立つ、大きいほうだった。
「……いや、いい」
「こんなに美味しいのに?」
「あんまり腹、へってないんだ。それより聞きたいことがあるんだけど」
ライラは少しだけ口を尖らせると、
「……美味しいのに」
と言って、自分で食べ始めた。
なんなんだ、この子。
学校の裏で肉まんを頬張っている姿と、昨夜、銀色の魔法を操っていた姿が、どうしても結びつかない。
「戻ってるんだけど、俺」
俺が切り出すと、ライラは当然のように頷いた。
「そうみたいだね」
「そうみたいだねって……。まだ一つしか集めてないだろ。5つ全部集めないと戻れないんじゃなかったのか」
「完全には、ね」
コーンスープを一口飲んで続ける。
「昼は最初から元の姿になれる。魔法の効果が出るのは、月が出てる時だけだから」
「そういう大事なことは昨日言えよ」
「言うタイミング、なかった」
真顔だった。
俺は深いため息をつく。
この子、薄々感じてはいたけど、変わっている子らしい。
「つまり昼は樹、夜はルナ」
「そう」
「毎晩?」
「月の出ない夜は平気」
「……あんまり安心できないな」
それでも昼間だけは普通に過ごせる。
昨夜に比べれば、それだけでも救いだった。
「昨日は、うまくいったね」
ライラが缶を両手で包みながら言った。
「見てたのか」
「うん」
「手伝ってくれてもよかったのに」
「わたしが行っても、何にもできない。もうほとんど魔力ないし。足を引っ張るだけ」
「……なるほど」
でも、あの路地で腰が抜けそうになった身としては、一言くらい文句を言いたい。
「昨日さ」
俺はライラを見る。
「あの記憶。あんた、いつも一人で受け止めてたのか」
「うん」
「重くないのか」
「すごく重いよ」
ライラは少しだけ笑った。
静かで、少し寂しい笑い方だった。
「あの子たちね」
膝の上で缶を抱えたまま続ける。
「ただ暴れてるわけじゃないの」
「……あの子たち?」
「かけらの魔法生物。昨日は、グリフォンの姿をしていた子。
届かなかった初恋が、行き場をなくして形になったもの」
俺は昨夜の記憶を思い出した。
言えなかった気持ち。
あれが、あのままずっと残り続ける。
「だから、集めるのか」
「うん」
ライラはこくりと頷いた。
「ちゃんと終わらせてあげないと、その子の恋、前に進めないから」
少しだけ胸が詰まった。
昨日まで、この子を恨もうと思っていた。
でも今は、そんな気持ちは少し薄れていた。
「わたし、こう見えて結構まじめなお仕事してるの」
「肉まん食べながら言われても説得力ないな」
「……エネルギーいるからいいの。樹は意地悪」
ぷくっと頬を膨らませる。
……ちょっとだけ可愛い。
「あ、そうだ」
ライラが思い出したように言った。
「一つ、注意があるんだった」
「まだあるのか」
「昼でも月が見えたら変身する」
「……は?」
「昼の月。見えたらアウト」
俺は固まった。
ゆっくりと顔を上げる。
夏の青空。
その中に――
白く、うっすらと。
半分だけの月が浮かんでいた。
「……嘘だろ」
体の奥が熱くなる。
「ちょ、待っ――」
制服が光に溶けた。
体が縮み、靴がぶかぶかになる。
髪がふわりと肩まで伸び、金色の巻き髪が揺れた。
「うぅ……ひどいよぉ……」
漏れた声は、鈴を転がしたような幼い声だった。
ライラが俺を見下ろす。
コーンスープを両手で持ったまま。
「……ちっちゃくなった」
「ちっちゃくなった、じゃないよぉ……!」
口から出たのは、ふにゃっと甘い声。口調も外見に合わせて変わってしまう。昨日と同じだ。
俺は自分の小さな手を見て、それから昼の月を恨めしく睨んだ。
ライラは少し考えてから、割ったままだった肉まんを俺の前に差し出す。
今度はちゃんと、しゃがんで。
「はい」
「……?」
「ちっちゃい子には、ちっちゃいほう」
「……あんまり、ちっちゃくない、それ」
受け取った肉まんは、小さくなった俺の両手でも、まだ十分大きかった。
学校でルナになってしまった。
俺、どうやって家に帰ればいいんだ?
「ラ、ライラおねえちゃん。だれかにみられちゃう……こわいよぉ……」
この体はすぐに涙が出てしまう。
ライラはそんな俺を見て、なぜか目をキラキラさせていた。
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