月菜と樹 最終話
エピローグ
六時間目の終わりのチャイムが鳴って、担任がだらだらと連絡事項を読み上げていく。
俺は机の下でこっそり時計を見た。あと三分。今日はクリスマスで、しかも冬休み前の最後の授業日だ。特に急ぐ用事もないのに早く終わってほしいと思うのは、たぶん高校生なら誰でも同じだと思う。
「――以上。気をつけて帰るように。よいお年を」
教室が一気にざわついた。今夜どこ行く、誰と行く、そんな会話があちこちで弾けている。俺は鞄に教科書を突っ込んで、なるべく目立たないように出口へ向かった。
「あ、樹くん」
背中に、控えめな声がかかった。
振り返ると、西尾月菜が立っていた。クラスで、いや学年の中で有名な美少女だ。
小柄な体を縮めるみたいに、鞄の持ち手を両手できゅっと握っている。少し重めの前髪の奥から、大きな瞳がおずおずと俺を見上げていた。
置いていかれた子犬みたいな子だな、というのが正直な印象だった。
「さ、さようなら」
なぜか噛んだ。しかも自分で気にして、みるみる耳まで赤くなっていく。
俺は一瞬なんて返せばいいのか迷って、それから普通に頷いた。
「うん。さようなら」
ただの挨拶だ。別に特別なことでもなんでもない。それなのにこの子は、なぜ緊張しているのだろう。
月菜はほっとしたような、それでも少し残念そうな顔で頭を下げて、友達のところへ戻っていった。
変な子だな、と思う。いつも律儀に挨拶してくる。俺は首をひねりながら教室を出た。
*
家に帰って、夕食を食べて、宿題を半分くらい片付けたところで、冷蔵庫が空っぽだったのを思い出した。明日の朝、食べるものがない。
時計を見るともう十時近い。パーカーを羽織って、財布とスマホだけポケットに突っ込み、「コンビニ行ってくる」と書斎の扉の外から声をかけた。
夜の住宅街は静かだった。クリスマスだというのに、この道には誰もいない。
角を曲がって、小さな公園の脇を通り過ぎようとしたところで足が止まる。
公園の入り口。街灯の外れた暗がり。
その脇に、古びた自販機が一台、ぽつんと立っている。
……見覚えがある。
いや、通学路の途中だから、見覚えがあるのは当たり前だ。当たり前なのに、心臓のあたりが妙にざわついた。
この場所で、何かを見た気がする。
女の子が、いた気がする。
夜そのものが、その子の指先でほどけていくような、そんな光を。
……なんだそれ。
夢の話だ。たぶん、いつか見た夢の断片が混ざってるだけだ。
俺は首を振って、また歩き出そうとした。
――ふわ。
視界の端で、何かが光った。
俺は反射的に足を止めた。
街灯の光の届かない、公園の入り口のあたり。
そこに、金色の光が、ひとつ。
宙に浮いている。
ホタルじゃない。もう十二月だ。
誰かのイルミネーションでもない。電線も何もない、ただの空中に、その光だけがふわふわと浮いている。
小さな、丸い、あたたかい光。
――どくん。
心臓が、鳴った。
息が浅くなる。理由がわからないのに、指先が震え出した。
この光を、俺は知っている。
どこかで、何度も、見ている。
夜空で見た。杖の先で見た。誰かの手のひらの上で、ぷつん、と弾けるのを見た。
そして、俺の中にもあった。
……なんだっけ。
なんだっけ、これ。
俺は一歩、前に出た。
二歩、三歩。
金色の光は逃げなかった。ただそこで、ゆっくりと明滅しながら、俺を待っていた。
手を伸ばした。
指先が、触れた。
――瞬間。
俺は弾けるように走り出していた。
なんでかわからない。何を思い出したのかもわからない。
だけど体が勝手に動いた。パーカーの裾が風で膨らんで、スマホと財布が落ちても放り出したまま、俺は夜の道を全力で駆けていた。
この道。
知ってる。
この角を左。ブロック塀の切れ目を右。錆びたガードレールの脇を抜けて、坂を上る。
何度も通った。
毎晩のように。
息が上がる。喉が焼ける。それでも足は止まらなかった。
街灯が後ろへ流れていく。頭上で月が、白く冴えていた。
――月菜。
名前が、胸の底から突き上げてきた。
角を曲がった。
見慣れた家。
二階のベランダ。
そこに、月菜がいた。
パジャマの上にカーディガンを羽織って、手すりに両腕を預けて、空を見上げていた。
白い息が、夜に溶けていた。
「――月菜!」
俺は叫んでいた。
月菜がびくりと肩を震わせて、下を見た。
目が合った。
まん丸に見開かれた目が、俺を映していた。
「え……?」
声が、震えていた。
「え、樹くん……? え、なんで……」
俺は肩で息をしながら、その顔を見上げた。
言葉が出てこない。喉が詰まる。
何を言えばいいのかもわからない。何を思い出したのかもわからない。
それでも、これだけは、口から溢れて止まらなかった。
「俺、俺……」
息を吸った。
「月菜のことが……!!」
月菜は、大きく目を見開いた。
その瞳がゆっくりと潤み、やがて一粒、涙が頬を伝う。
それでも、泣きながら笑っていた。
その笑顔はまるで。
魔法のように綺麗だった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語を最後まで見届けていただけたことが、何より嬉しいです。
読んでくださる皆様がいたことが、私にとって大きな力になりました。
もし作品を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークをいただけると今後の励みになります。
また次の物語でもお会いできましたら幸いです。(今もひそひそと書いています)
本当にありがとうございました。




