月菜と樹4
ルナちゃんに一歩近づいた。
――ぐるるるるっ。
竜が低く唸る。金色の目が開いて、わたしを見た。
さっきまでの静かな目から変わる。胸の球の中のルナちゃんを絶対に渡さないという、守る目だった。
「……あ、」
わたしは後ずさりながら、空中で杖をぎゅっと握り直した。
竜が大きな翼を広げる。夜空を切り裂くように勢いよく開いた。空気が風でざあっと鳴る。
次の瞬間、竜はこっちに突っ込んできた。
「――っ!」
わたしは加速で横に飛んだ。しゅん、と体が流れて、さっきまでいた場所を白い巨体がまっすぐ突き抜けていく。羽ばたきの風が遅れて頬を殴った。
どうしよう。キマイラと戦った時を思い出す。シールドが持つかどうかもわからない。
竜が旋回して、またこっちを向いた。金色の目がまっすぐわたしを捉える。
『――西尾さんには、いつも笑っていてほしいって……』
声がした。誰かの声が直接、頭の中に流れ込んできた。
わたしは空中で動きを止めた。
――え。
この声。わたし、知ってる。
樹くん。
考えるより先に、竜が翼をひと振りした。夜空に白い風の刃がいくつも生まれて、こっちに向かって飛んでくる。
「レイっ!」
桃色の光を走らせて、二枚、三枚と撃ち落とす。落としきれなかった一枚が肩をかすめて、じん、と熱が走った。
『――あした、あしたどうするのっ!あした』
なにこれ?誰の話?
ルナちゃんの声?
『――ルナがあなただって、バレちゃいけない。バレたら、世界があなたをルナと認識する。そうしたら、戻れない』
竜が高度を落として、下から突き上げるように迫ってきた。わたしは加速で真上へ逃げる。すぐ足元を白い背中が通り抜けていった。
『――見つけられて、よかったよ』
『――花火に彩られる君が、綺麗だと思ったんだ』
――っ。
わたしは息を飲んだ。
鼻の奥がつんとして、視界がにじんだ。
その隙に、竜の口が開いていた。喉の奥に金色の光が集まっていく。
「――シ、シールドっ!」
わたしは桃色のドームを正面に張った。
金色のブレスがドームにぶつかる。どんっ、と押されて、ドームが大きくたわんだ。ぎしり、ぎしりと軋む音がする。
わたしは両手で杖を支えて、歯を食いしばった。
『――ライラといると、保護者みたいな気持ちになる』
また声が流れた。
『――月菜には』
『――月菜には、いつも笑っていてほしい』
――っ。
視界がぐにゃりと歪んで、止められなかった。ぼろっと涙がこぼれた。
シールドを支えたまま、わたしは泣いていた。
なんで、樹くんの声が聞こえるの。
白い竜。球の中に入っているルナちゃん。
樹くんなの?
あなたは、樹くんなの?
こんなに。こんなにたくさん、思ってくれてたの?全部言葉にできなかったの?
「……なにも」
声が震えた。
「なにも、知らなかった。わたし」
言葉が続かなかった。涙が次から次にこぼれて、頬を伝って、夜の風に散っていった。
『――かけらを全部集めたら。樹の中の魔力は鎮まる。その代わり、あなたの記憶が消える』
シールドを押さえたまま、わたしは息を止めた。
『――消えるのは、恋に関する記憶だけ。……つまり、月菜のことを忘れる』
――やだ。
声にならなかった。
『――答えは決まってる。月菜を傷つけたくない。きっと、はじめはつらいと思う』
『――元に戻すだけだ』
ブレスが止んだ。シールドはなんとか持った。
わたしは杖にしがみついたまま、しゃくり上げていた。
……そうだったんだ。
嫌われたんだと思ってた。旅行で何かまちがえたんだと思ってた。
ちがった。
樹くんは、わたしに何も残さないために、ひとりで抱えていたんだ。好きだって気持ちを、最後まで秘密にするって決めていたんだ。
「……ばか」
わたしは袖で乱暴に目をこすった。
「ばかっ、樹くんのばかっ」
声が夜に散った。
竜がまた突っ込んできた。
わたしは加速で右に飛んだ。風の刃をシールドで弾く。金色のブレスを避けきれずに脇腹を掠めた。じん、と熱くなって、息が詰まった。
竜が旋回して、もう一度こっちに突っ込んできた。
わたしの加速が追いつかなかった。左肩の痛み。脇腹の熱さ。杖を握る手が震えていた。
白い巨体が目の前に迫った。
金色の目が真正面にあった。
次の一撃を避けきれない。
わたしは目を閉じた。
樹くん、ごめんなさい。
助けてあげられなかった。
――どうか。
目を閉じたまま、心の中で祈った。
もしこれで、わたしが消えるなら。
――どうか、樹くんが。
わたしの大好きな樹くんが。
――素敵な人と出会って、ずっと幸せでいられますように。
風の音が止んだ。
わたしはそっと目を開けた。
白い竜が目の前で止まっていた。
金色の目が、ふ、と細くなる。
突き出された鋭い爪が、わたしの目の前でぴたりと止まっていた。あと少し、あと数センチで届く、その距離で。
竜が翼を静かに畳んだ。
動かずに、じっとしている。
金色の目がまっすぐこっちを見ていた。
その目に怒りはもうなかった。
ただ静かで、少しだけ寂しそうな目だった。
――どうして、止まったの。
わたしの頬に涙がぼろりとこぼれた。
止まらなかった。次から次にこぼれた。
「……樹くん」
わたしは震える手で杖を掲げた。
両手でしっかり握った。
目を閉じなかった。
まっすぐ白い竜の胸の中の、金色の球を見た。
球の中のルナちゃんを見た。
「――ごめんね、樹くん」
「ごめん、ごめん、ごめん」
杖の宝石が桃色に光った。
ずっといっしょにいたかった。
ずっと隣にいたかった。
好きって伝えたかった。
「――レイっ!」
桃色の光が夜空を走った。
まっすぐに、白い竜の胸の金色の球を貫いた。
竜は暴れなかった。
白い鱗が内側から金色の光に染まっていく。翼がゆっくり光の粒にほどけていく。金色の二つの目が静かに閉じられた。
金色の球がはじけ、中から光の粒があふれた。
その光の中から。
――樹くんの、記憶が流れ込んできた。




