月菜と樹3
月菜はベランダの手すりに両腕を預けた。
夜の空は雲ひとつなくて、月が白く冴えていた。
ルナちゃんは今夜も来ない。
旅行から帰ってからぱたりと来なくなった。あんなに毎晩一緒にいたのにな。何かあったんだろうか。
わたしはベランダから通りの方を見下ろした。
街灯の光の中、誰もいなかった。
……ルナちゃんもわたしのこと、嫌になっちゃったのかな。
……樹くん。
名前を心の中で呼んだだけで、また目の奥が熱くなった。
わたしは下を向いて、手すりに額を押しつけた。
昼間、勇気を出して樹くんに話しかけに行った。
どうしてあんな顔をさせちゃったのか、わからない。
わたしが何を間違えたのか、わからない。
旅行、たのしかったのに。あーん、してくれたのに。名前呼んでくれたのに。
全部わたしの勘違いだったのかな。
樹くんに好きって言いたかった。
旅行の最後の夜、ルナちゃんにそう宣言した。
ちゃんと伝えるって。
でも、もう言えないのかもしれない。
言ったら樹くんをもっと困らせるだけかもしれない。
……いいや。
わたしは手すりから少しだけ顔を上げた。
月を見た。
言えなくてもいい。
樹くんがわたしのこと嫌でもいい。
……見ているだけならいいよね。
こっそり遠くから樹くんを見てるだけなら。
ずっと好きでいるだけなら、いいよね。それくらいはわたしの勝手だよね。誰にも迷惑かけないよね。
そう思った。
――どくん。
胸の真ん中が鳴った。
「……え」
わたしは手すりから体を起こした。
背中の産毛がいっせいに逆立った。
これ、知ってる。
この感じ、知ってる。
初恋のかけらが生まれた時の、あの気配。今までのかけらの子たちに感じた、あの重たい粘つく気配。
でもちがう。
わたしは、この子を知っている。
誰なのかわからない。でも、そう感じる。
どくん。
どくん、どくん。
わたしの心臓が勝手に走り出した。
「なに、これ」
わたしは部屋に駆け戻った。
クローゼットの奥から服を引っ張り出し、着替える。
窓を開け、杖を握りしめた。
目を閉じて気配の方向を探す。
――そっち。
目を開けた。
同時にわたしは夜空に飛び出していた。
外はもう真夜中で、街灯の光だけが道を照らしていた。杖を両手で抱えて、加速をしようとした。
その時に気づいた。
――誰かが街灯の下に立っている。
わたしは息を、止めた。
白いコート。青い髪。街灯の下で、静かにこっちを見ていたのは、ライラちゃんだった。
「ラ、ライラちゃん……?」
声が、うまく出なかった。
驚きが、二重にきていた。
夜中にライラちゃんが家の前にいる驚きが、一つ。
もう一つは、ライラちゃんの体から魔法を感じたことだった。
目を、疑った。
……ライラちゃん、魔法使いなの?
いつから? どうして? なんで今まで気づかなかったの?樹くんは知っているの?
「月菜」
ライラちゃんが、口を開いた。
「行くの?」
答えなんて、決まっていた。
でも、うまく声が出せなかった。ライラちゃんが魔法使いだと知ったばかりで、頭が追いつかなかった。杖をぎゅっと抱え込む。
ライラちゃんは、それ以上、なにも聞かなかった。
わたしのほうへ、一歩、近づいた。
街灯の光の中で、ライラちゃんの目が、少し潤んでいるのが、見えた。
「――お願い」
ライラちゃんの声が、揺れた。
いつもの抑揚のない声じゃなかった。
「助けてあげて」
「え……」
「あの人を助けられるのは、月菜だけなの」
わたしは、ライラちゃんの顔を、じっと見た。
あの人。
誰、とは、ライラちゃんは言わなかった。
「ライラちゃん、あの、」
「全部、あとで話す。今は時間がない。ごめん」
ライラちゃんの目から、ぽろりと、一粒、こぼれた。
「こんなことになって、ごめんなさい」
わたしは、息を呑んだ。
あの、いつも無表情のライラちゃんが。
――泣いていた。
「お願い」
もう一度、ライラちゃんが言った。
「お願い、月菜」
両手を、体の前で、ぎゅっと握っていた。
その手が、白くなるほど、握っていた。
「あの人を、助けてあげて」
「……うん」
わたしの口が、勝手に、うなずいていた。
「うん、任せて。行ってくる」
「――ありがとう」
ライラちゃんは、それだけ言って、少しだけ体を横にずらした。
わたしの前の道を空けてくれた。
わたしは杖にまたがり、夜空に飛び出した。
*
気配ははっきりしていた。
わたしの家からそう遠くない場所。
どんどん近くなっていく。
……この道、知ってる。
……この方向、知ってる。
空の下に、見慣れた建物が、見えてきた。
わたしたちの、学校だった。
その屋根の上に。
――いた。
白い獣がうずくまっていた。
四本の足。長い尾。折り畳まれた大きな翼。細長い首の先に、綺麗な頭。金色の目が二つ。
竜だった。
わたしよりずっと大きな竜だった。
白い鱗が月の光を受けて、内側からほのかに金色に光っていた。今までのかけらの子たちよりずっと静かで、ずっと綺麗な光だった。
わたしの胸に重くのしかかる、あの気配。
まぎれもなく初恋のかけら。
わたしは少しずつ高度を下げた。
金色の目が二つ、静かにこっちを見た。
でも襲ってくる気配がない。
うずくまったまま、じっとこっちを見ていた。
その竜の胸の真ん中に、
――大きな球があった。
わたしは息を止めた。
シャボン玉みたいだった。
でもシャボン玉よりずっと大きくて、ずっと綺麗だった。透きとおった球の表面が内側からの光を受けて、金色にゆらゆら揺れていた。
その球の中に。
――誰かいた。
小さな影。
膝を抱えて丸くなっていた。
金色の髪が、球の中の光にふわりと浮いて揺れていた。
「……うそ」
わたしの声が震えた。
もう一段、高度を下げた。
目を細めて、球の中を覗きこんだ。
小さな女の子だった。
ふわふわの金色の髪。
閉じられたまぶた。
お人形さんみたいな顔、小さな両手。
「――ルナ、ちゃん」
わたしの口からこぼれた。
空中でわたしの指先が震えた。
杖を握る手が冷たくなっていった。
どうして。
どうしてルナちゃんが。
竜の胸の中に。
閉じ込められているの。
球の中のルナちゃんは動かなかった。
眠っているみたいだった。
まつげが閉じたまま、ふるり、とも震えなかった。
竜が少しだけ頭を下げた。
金色の目がゆっくり閉じた。
まるで「ここにいる」と告げるように。




