月菜と樹2
次の日も同じことの繰り返し。
朝、廊下で月菜に声をかけられても素っ気なく返す。
昼、目を合わせないようにして弁当を食べる。
放課後、誰とも話さずにまっすぐ教室を出る。
それを繰り返す。
しばらくすると、月菜は話しかけてこなくなっていった。
そうなるにつれて、俺は笑えなくなっていった。
月菜を目で追いそうになるのを止める。
意識して、月菜を意識しないようにする。
心と体が逆のことをする。
つらいなんて思うな。
俺なんかより、月菜の方がよっぽどつらいんだから。
*
ある日の昼休み、俺は琴美に呼び出された。
廊下の突き当たり、階段の踊り場。人はあまり来ない。
「樹くん」
琴美の声は静かだった。怒鳴るでも責めるでもなかった。
ただまっすぐに俺を見つめている。
「なんで月菜を無視するの」
最近の月菜を見ていて、思うところがあるのだろう。当たり前だ。
「……別に無視してない」
「してるよ」
「いつもと同じだよ」
「そんなわけない。樹くんには見せないけど、あの子、毎日泣いてるわ」
「そうだとしても、俺には何もできない」
「あなたが、」
言いかけて、琴美の言葉が止まった。
俺の目を見た。
ハッとして、俺はうつむいて目を伏せた。伏せたのに遅かった。
――ぽたり。
床にしずくが落ちた。
え。
自分でも驚いた。頬に手をやったら濡れていた。いつから涙が出ていたのか。気づけなかった。
「樹くん……」
琴美の声が少し変わった。戸惑っている。
俺は慌てて目をこすった。こすっても止まらなかった。次から次に勝手にこぼれた。
「あ、あれ、なんで、これ、ちが、」
「……」
「琴美さん、ごめん、なんか勝手に」
「樹くん」
琴美は俺の顔をじっと見ていた。
しばらく何も言わなかった。
それから静かに言った。
「わかったわ」
「……え」
「何か事情、あるんだね」
「……」
「言えないなら聞かないけど。でも」
琴美は少しだけ目を伏せた。
「でも、ひとつだけ聞かせて」
「……うん」
「樹くんは月菜のこと、大切?」
俺は少し間を置いた。
その言葉に、嘘はつけなかった。
「……うん」
「そっか」
「……うん、大切だよ」
「うん」
「大切なんだ。ほんとに。でも、言えない」
言いながらまたこぼれた。
「近づけないんだ」
「うん」
「事情は言えない」
琴美はうなずいた。
「わかった」
それだけ、言葉に出した。
「琴美さん」
「うん」
「月菜のこと、お願いします」
「……月菜のそばにいてください」
琴美は少し目を伏せて、それからうなずいた。
「うん。……私が月菜のそばにいるから」
「でも……あの子にはきっと、樹くんが必要だと思うわ」
俺は何も言えず、動けなかった。
琴美はそんな俺の様子を見て、教室に戻っていった。
*
俺は目をこすって深く息を吐いた。
顔を洗いに行きたかった。放課後まであと少し。それまでになんとか平気な顔をしていないといけない。
大丈夫。月菜のためなんだ。
月菜のことは琴美さんに任せよう。
そう思って教室に戻る途中。
廊下で月菜が待っていた。
俺と目が合った。
月菜は逃げなかった。
両手を体の前でぎゅっと握って、まっすぐ俺の前に立っていた。
「……樹くん」
声が少し震えていた。
「わたし、なにかしちゃったかな」
俺は答えられなかった。
口を開けようとした。開けたらたぶんまたこぼれる。だから開けなかった。
「教えて、樹くん」
月菜が一歩近づいた。
「わたし、なおすから。絶対、なおすから。だから教えて」
俺は廊下の床をじっと見ていた。
「お願い。教えて、樹くん」
月菜の顔を見られなかった。見たらたぶん俺の意思は崩れる。
「……ごめん」
やっとそれだけ言った。
「なにが」
答えられなかった。
「なにがごめんなの、樹くん」
答えられなかった。
月菜の目からしずくが落ちた。
一粒。
「あのね」
俺に何かを伝えようとするように語りかける。
「旅行の時、何かしちゃってたら、ごめんなさい」
声が震えていた。
二粒。
三粒からはもう止まらなかった。
「い、樹くんと、また、お話ししたいよ」
「……」
「これで、さよならなんて、ぜったい、……っ……」
「……ごめん。もう行くから」
「……なんで、樹く、いやだよ、いや……」
俺はそれだけ言って走り出した。
月菜の泣いている声が後ろから聞こえる。それを振り払うように。
教室には戻らず、門を出る。
俺のせいで月菜を泣かせている。
あの子は何も悪くない。俺の都合で、俺に振り回されて。
俺、最低だ。
苦しい。痛い。
息が浅くなる。
――どく、と胸が鳴った。
「……っ」
俺は地面に手をついた。
胸の真ん中が痛かった。
ルナに変わる時と感覚が少し似ている。
でも、ルナに変わる時のあの熱さとは違った。
もっと深い場所で、重い痛みだった。どす黒く、鈍く、内側から押し上げてくるような。
――俺はこの感覚を知っている。
この痛みを知っている。
かけらと同じ感覚。
でも、なんで。
今、周囲にかけらの気配は感じない。
……これは、
……これ、は。
――五つ目の、初恋のかけら。
今、俺の中で生まれようとしているんだ。
俺の意識はそこでぷつん、と切れた。




