君を失う未来
ホテルの正面に着いたときには、月菜はまだライラの背中で目を閉じていた。
自動ドアの前で、ライラがこっちを振り返った。
「わたし、月菜を部屋に送る」
「うん」
「ルナはロビーで待ってて」
「うん」
「琴美たちには寝ちゃったって言うから」
「……おねがいね」
ライラは月菜を背負い直して、静かにエレベーターのほうへ消えていった。
*
ロビーは昨夜と同じだった。
人はまばらで、フロントの奥で夜勤の人がキーボードを叩いている。庭のライトの光がガラス越しに床に淡い模様を落としていた。
俺はソファにちょこんと座った。
ルナの短い足が地面に届かない。ぶらぶらさせながら、両手をそっと開いた。
……なにも感じない。
あんなにあふれた光は、もう俺の中にはなかった。
試しに指先に意識を集めてみる。反応はなかった。もう一度深く息を吐いて、指の先に集中する。何も起こらなかった。
……なんでさっきは使えたんだろう。
*
しばらくして、エレベーターの扉が開いた。
ライラが戻ってきた。
両手を後ろで組んで、いつものように俺のほうへまっすぐ歩いてくる。
……でも顔がいつもと違う。
眉がほんの少しだけ寄っている。
俺の隣に腰を下ろす。
「つきなおねえちゃん、どう?」
「……気を失ってるだけ。ケガもない」
「よかった」
「うん。すぐ目を覚ますと思う」
俺はふうっと大きく息を吐いた。ソファの背に体を預けた。
*
「樹」
ライラが静かに切り出した。
「話がある」
「うん」
ライラは少し間を置いた。
言葉を選んでいた。慎重に。
「樹、あなたは、魔法使いと人間のハーフ」
俺は少し目を見開いた。
「……ハーフ?」
「うん。片方の親御さんが魔法使いの血を引いてる。強くない血だから、たぶん本人も知らない」
「……そうなんだ」
「ふつうの魔法使いは、生まれたときから少しずつ魔力を体になじませていく。何年もかけてコップに水を少しずつ注ぐみたいに」
「うん」
「ハーフはそれができない。魔力をうまく制御できない」
ライラは自分の指をじっと見ていた。
「さっきの魔法、すごかった。でもあれはたまたまできただけ。あなたの思いと、目覚めかけてた魔力と、月菜の杖と、全部が偶然揃った」
「……そっか」
「いつもあんなふうに使えるわけじゃない」
俺はうなずいた。それはなんとなく自分でもわかっていた。今、指先に何も感じないから。
……いや、でも。
俺は少し姿勢を直した。
うん、と心の中でうなずいた。
「ライラちゃん」
「うん」
「……あのね」
「うん」
「あのとき、わたし、はっきりしたの」
「……」
「わたし、つきなおねえちゃんがすき」
言葉にするほど、思いは強くなる。
「はっきりしたの。ちゃんとわかったの。わたし、つきなおねえちゃんがすき。だから、こくはく、しようおもうの。ちゃんとつたえたいの」
言い切った。嘘偽りのない俺の本心。
ライラは少しの間、何も言わなかった。
俺の顔をじっと見ていた。
それからゆっくり口を開いた。
「……それは」
「うん」
「考えたほうがいい」
声が小さかった。
え?
「ライラちゃん?」
「今から言うこと、よく聞いて」
「……うん」
ライラは両手を膝の上でそっと組んだ。指先が少し白い。
「さっき言った。ハーフは魔力をうまく操れない」
「うん」
「初めて会った時に私の魔法が失敗したのは、あなたが無意識にシールドを張ったからだったの。それがねじれて、女の子になる魔法に変わった。あなたは、魔法をコントロールできないの」
「うん」
「……そして、さっきので、あなたは目覚めさせてしまった」
俺は息を止めた。
「あのたたかいで?」
「うん。あの一瞬に、あなたの中の眠ってた魔力が、全部扉を開けた」
ライラは俺の目を見た。
「昼間は樹。月が出たらルナ。その関係も」
「うん」
「その関係もいつまで続くかわからない」
「……え」
「魔力が完全に目覚めた以上、あなたの中で魔法がゆっくり、少しずつ変わっていく。今の変身の仕方がいつ変わるか。壊れるか。逆に固まってしまうか。……ぜんぶわからない」
俺の心臓が少し冷たくなった。
「……なおせないの?」
「一つだけある」
ライラは静かに答えた。
「今までと同じ、初恋のかけら。……全部集めて、あなたの中の魔力を鎮める。かけらの力で、ルナになる魔法ごと、扉をまた閉める」
「じゃあ、」
「でも」
ライラが俺の言葉を止めた。
「その瞬間に。……あなたの魔力は反発して、たぶん暴走する」
「……」
「体に目覚めた大きな魔力を、無理やり鎮めるから」
*
俺は少しの間、何も言えなかった。
それからこわごわ、小さな声で聞いた。
「……ぼうそうすると、どうなるの?」
ライラは答えなかった。
俺の目を見て、少し口を開きかけて、閉じて、また開きかけて、閉じた。
「ライラちゃん」
「……」
「おしえて」
ライラはふう、と静かに息を吐いた。
「暴走する魔力を無理やり抑え込もうとして、あなたの体と脳が、あなたを守ろうとする」
「うん」
「……今までそうなった魔法使いは」
そこでライラはまた言葉を切った。
少しの間、視線を床に落とした。
それから顔を上げた。
ちゃんと俺の目を見た。
「……記憶を失うの」
――俺の耳の奥で。
どく、と鳴った。
「……きおくって」
「……」
「うまれてから、ぜんぶ?」
「……ううん」
ライラは首を静かに横に振った。
「全部じゃない。日常の記憶は残る。学校のことも、潤や翔のことも、家族のことも」
「……うん」
「消えるのは」
ライラの声が少しだけ揺れた。
「魔法、つまり恋に関する記憶」
「……」
「……たぶん、あなたは月菜のことを忘れる。それと、魔法で繋がっている私のことも」
ロビーの静かな音が遠くに聞こえた。
夜勤の人のキーボードの音が、かたかた、と届いた。
俺はしばらく口を開けなかった。
開けたら何かがこぼれてしまいそうだった。
「……そんな」
ようやくルナの小さな声が、俺の口からこぼれた。
「……そんなのって」
膝の上でぶかぶかの服の裾を両手でぎゅっと握った。
ライラは何も言わなかった。
俺の隣で、ただ静かに俺の隣にいた。
その日、俺は結局眠ることができなかった。
月菜を好きになった日。
俺は、月菜を失う未来も知った。




