ルナと月菜とベランダと
「あとひとつだけ、注意」
背を向けかけていたライラが、思い出したように振り返った。その声のトーンは、先ほどまでよりも明らかに一段低く、真剣だった。
「あなたが『樹』だってバレたら、駄目」
「……バレたら?」
「世界が、今のあなたを樹だと完全に認識してしまう。そうなったら、もう戻れない。一生、その体のまま」
俺は息を呑んだ。
「もどれない、って……ずっと、このちっちゃい、おんなのこのままなの?」
「そう」
彼女はまっすぐ俺を見ていた。その瞳の奥に、これまで見せなかった暗い影が落ちている。冗談で言っているのではないと、一目でわかる目だった。
「だから、名前も、住んでいる場所も、学校も、家族のことも、絶対に言わないこと。誰にも。もちろん、その『素質のある子』にもね」
「……うん。わかったよ」
俺の強張った返事に、ライラはほっと息を吐いた。
「ほんとに、ごめん。元に戻るまで絶対に力になるから」
彼女は歩き出していた。俺が慌てて追いかけようとすると、背を向けたまま片手を軽く上げ、それ以上ついてくるなと合図をする。
「あなたはあの子のところへ。わたしは、離れてサポート」
感じ取った光の気配を頼りに歩き出して、数分。自分の足が止まった場所で、俺は思わず息を止めた。
表札に掲げられた苗字、よく知っている。
ここは――月菜の家、じゃないか。
同じクラスで、つい数時間前、帰り際に噛みながら「さようなら」と言ってきた、あの子だ。
俺は門の前で棒立ちになった。チャイムを、押すのか? この時間に? しかもこんな姿で?女の子の家になんて行ったこともないぞ?
――どう考えても完全な不審者だ。夜の十時過ぎに、見知らぬ金髪幼女が家の前にポツンと立っているなんて。
押せるわけがない。かといって、引き返すのも違う気がする。
どうしよう。どうしよう。頭の中でぐるぐると同じ言葉が空回るばかりで、足はその場から一歩も動けない。街灯の下で完全に固まっていた、その時だった。
体が、ふわりと浮いた。
「え……っ?」
間の抜けた声が出た瞬間、俺の体は重力を失い、宙に持ち上がっていた。見えない糸で吊るされたみたいに、ふわふわと地面から引き離されていく。景色が下へと流れる。門扉の高さを越え、庭の木の梢を抜け、二階の高さへ。
なんとなく気配を感じて視線を上げると、二階のベランダに人影があった。
月菜だった。
パジャマ姿で、髪をひとつに束ね、ベランダの手すりに両手をかけている。彼女は目を丸くして、こちらを――宙に浮く俺を、固まって見ていた。
俺の体は、風に流される風船のように、ふわふわと月菜のほうへ運ばれていく。慌てて自分の周りを見回し、俺は再び息を止めた。
光っている。俺自身が。
銀色の細かな粒が、淡い金色の髪の先から、袖のレースの縁から、スカートの裾から、ゆっくりとこぼれ落ち続けている。まるで月の光をそのまま身にまとっているかのように、体の輪郭がぼんやりと発光していた。ライラが魔法を使ったときと同じ、あの淡くて甘い光だ。
なるほど、そりゃ、月菜も驚くわ。
ベランダの手すりのすぐ手前で、俺の体はふわりと静止した。月菜と目線がほぼ同じ高さになる。互いに、息をするのも忘れて見つめ合う形になった。
「……こ、こんばんは」
耐えきれず、俺のほうからなんとか声を絞り出した。夜十時過ぎに、二階のベランダの前に浮いている謎の幼女が「こんばんは」と挨拶する異常さについては、この際考えないことにした。
「だ、だれですか……?」
月菜も、声を震わせながら小さく返してきた。怖がっているというよりは、目の前の圧倒的な非日常に頭が追いついていない、という顔だ。
「あの、その」
俺は必死に言葉を探した。名前、家、学校、家族。全部、言ってはいけない。
「いま……浮かんで、る?」
「う、うん」
俺はこくりと頷いて。
月菜は恐る恐るというふうに口を開いた。
「あなた……魔法が、使えるの?」
「……ちょ、ちょっとだけ」
口が勝手にそう答えていた。使えないくせに、と自分で自分に突っ込みたくなる。だが、この発光する体で「違います」と否定するのは無理があった。
答えた瞬間、月菜の顔が、ぱあっと明るく華やいだ。
「すごーーい……!!」
抑えきれないような、小さな、けれど熱量のこもった声だった。両手を胸の前でぎゅっと握り、瞳をキラキラと輝かせている。
「すごい!すごい!本当にいたんだ、魔法使いさん……! やだ、どうしよう、夢みたい……!」
「あの、あの、お名前はなんて言うの?」
弾んだ声で尋ねられ、俺は咄嗟に言葉を探した。
「……いつ」
樹、と言いかけて、慌てて呑み込む。
どうする。そう思った時、空に浮かぶ月が目に入る。
「る、ルナ」
「ルナちゃん……!」
月菜は口の中で何度か「ルナちゃん、ルナちゃん」と反芻した。ただそれだけで、心底嬉しそうにしている。
「わたし、月菜。よ、よろしくね」
ぺこりと頭を下げる月菜に、俺もつられて、宙に浮いたまま同じくらいの角度で頭を下げた。夢の中にいるみたいに現実感がない。
でも、話を進めないと。俺は小さく息を吸い、口を開いた。
「あのね、つきな、おねえちゃん」
勝手にそんな呼び方になって口から飛び出した。喉の奥がむず痒くて死にそうだ。それでも月菜は真剣な顔で、こくりと頷いた。
「わたしがここにきたのには、りゆうがあって。まほうつかいになれるこを、さがしてて」
「うん、うん」
月菜は素直に頷きながら、俺の次の言葉を待っている。
「つきなおねえちゃんは、まほうつかいの、そしつがあるの」
「わたしが……?」
「うん。わからないかもしれないけど、かんじるの」
月菜は自分の手のひらをまじまじと見つめた。信じられないという顔と、信じたいという顔が半分ずつ混ざっている。
「魔法使いになるとね、街に落ちてる『初恋のかけら』っていうのを集められるようになるの。それを、集めてほしくて」
「集める……?」
「うん。それでね、その、わたしを……」
『助けてほしい』。そう続けようとして、俺は言葉に詰まった。事情のすべてを話すわけにはいかない。「元に戻して」なんて言えば、じゃあ元は何だったの、と当然聞かれる。
少し迷って、俺は慎重に言葉を選んだ。
「わたしを、たすけてほしいの。りゆうは、ちゃんといえなくて、ごめんなさい。でも、つきなおねえちゃんに、あつめてほしくて」
月菜はしばらく黙って、俺の顔を見つめていた。それから、そっとベランダの手すりの内側にかがみ込み、宙に浮く俺と同じくらいの目線まで顔を近づけてくれた。
「ルナちゃんは、悪い子じゃない?」
「……わるいこじゃ、ないよ」
「悪いことに使うんじゃない?」
「うん。だれもきずつけない。やくそくする」
「じゃあ、いいよ」
え、と俺は間の抜けた声を出した。
「そんな、かんたんに……?」
「だって、ルナちゃん、困ってるんでしょう」
月菜は少し照れたように、はにかんで笑った。
「わたしね、実は、魔法少女ってずっと憧れてたの。だからびっくりしたけど、すごく嬉しい。ルナちゃんのお願いなら、聞いてあげたい」
俺は言葉に詰まった。
その真っ直ぐな純粋さが、後ろめたい隠し事をしている俺の胸をチクリと刺した。
俺はそっと宙で姿勢を整え、月菜のほうへ近づいた。
「じゃあ、おでこ、くっつけて?」
「え、お、おでこ?」
「うん。それで『まほうつかいになりたい』ってこころのなかでおねがいするだけ。それで、なれるって」
月菜は少し慌てたように戸惑いながらも、ゆっくりと顔を近づけてきた。手すり越しに、二人の距離がじわじわと縮まっていく。
月菜の大きな瞳が、すぐ目の前で、小さく震えていた。
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