恋が魔法になる世界
「まず……失敗しちゃった、ごめんね」
ライラは杖を下ろして、少しだけ肩を落とした。悪びれてはいるけれど、深刻ぶるでもない、妙に軽い謝り方だった。
「記憶を消そうとしたの。あなたの。見られちゃったから、なかったことにしたくて。……そうしたら、女の子にしちゃった」
「……しっぱいして、おんなのこに、なっちゃうの?」
頭の中では『なんだそれ、ふざけんなよ!』と怒鳴り散らしたつもりだった。なのに、口からこぼれたのは頼りない、とろけるような甘い声だった。それでも俺は、震える声で続けた。
「まほうって、そんな……しっぱい、するの……?」
「普通はしない。わたしが下手なだけ」
あっさり言い放つライラに、俺は言葉を失う。
「戻してあげたい。本当に。でも、今のわたしだと魔力が足りないの」
「た、たりないって……どれくらい……?」
「三年くらい貯めれば足りると思う。ひとりでやるなら」
三年。高校卒業まで、この姿? 冗談じゃない。俺は震える手を見た。細くて、白くて、まるでお人形さんみたいな小さな指。この体で三年なんて、絶対に無理だ。
「さんねん……っ。むりだよ、そんなのっ! あした、どうするの、あした……っ」
「だから、新しい魔法使いを探すの。あなたを元に戻すには、それが一番早いの」
「あたらしい、まほうつかい……?」
「そう。……魔法の源はね、恋なの」
「……こい……?」
俺は目を丸くした。急だった。鏡越しに見えた自分の顔は、まん丸な瞳をさらに見開いて、今にも泣き出しそうに揺れている。
「初恋のかけらは、すごい魔力を秘めているの。でも、放っておくとね、悪いかけら体になって、暴れちゃうの。わたしはもう魔力がないから集められない。だから、その子に集めてもらうの」
「あつめるって……どうやって……?」
「その子に、魔法でやっつけてもらうの。そうね、5つ。そうすれば、あなたを元に戻すのに十分な魔力が貯まる」
「ちょ、ちょっとまって……きゅうだよ……っ」
俺は思わず一歩下がった。フリルのついたスカートの裾が膝の上でひらひらと揺れて、それだけで心細くて泣きそうになる。
「はなしが、とびすぎだよぉ……。かけらってなに? そもそも、その子ってどこにいるの……っ」
「――ちょっと目を瞑ってみて」
ライラは俺の質問には答えず、静かにそう言った。
「わたしと魔法で繋がってるから、なんとなく感じるはずなの。あなたも今、少しだけ」
「かんじるって……なにを……?」
「素質のある子の場所」
「……そんなので、わかるの……?」
「わかるよ。目を瞑って」
押し切られる形で、俺はまぶたを閉じた。何も感じないだろう、と思ったのに。
まぶたの裏に、街の地図がぼんやりと浮かんだ。あちこちに小さな光が散らばっている。街灯じゃない、もっと柔らかい、脈打つような温かさ。
その中に、ひとつだけ――ひときわ明るい光があった。
場所はなぜか、はっきりとわかった。近い。歩いてすぐの距離。……見覚えがある。
「……みえる。ひとつだけ、すごくあかるいのが」
「うん。感じた?」
目を開けると、ライラが小さく笑っていた。
「素質のある子ね。近くにいる。運がいい」
「そのこ、みつけたら……どうすればいいの……?」
「その子とおでこをくっつけて」
ライラはとんとん、と自分の額を指で叩いた。
「それだけ。あとはその子が、魔法使いになりたいって、心の中でお願いするだけ。それだけで、なれる」
「そんなに……かんたんに……?」
「簡単じゃないよ。素質がない子だと、いくらお願いしても何も起きないから」
彼女は少し困ったように微笑んで、静かに付け足した。
「その光、追いかけてみて。悪いようにはしないから」
行くしかない。そう思い夜の住宅街を踏み出そうとする。
……
……
「ら、ライラちゃぁん」
「くらいみち、こわいよぉ……」
俺の感覚は、完全に金髪幼女になっているのだった。
◇ ◇ ◇
わたしは、湯船の中で、ぼんやりと膝を抱えていた。
白い湯気が、ふわふわと天井へ立ちのぼっていく。ふくらはぎに、指先で、意味もなく、まる、まる、と円を描く。
――樹くん。
頭に浮かぶのは、今日もその名前だった。
朝の下駄箱ですれ違ったとき、目が合った、あの一瞬。ほんの少し驚いたようにこちらを見て、それから「おはよう」って、小さく返してくれた。
たった、それだけ。
それだけなのに、思い出すたび、湯船の中でじたばたしたくなる。
少し低くて、優しくて。あの「おはよう」を聞けた日は、一日中、その声が胸の奥で何度も響いてしまう。
私はどうして、あんな挨拶しかできないんだろう。
「今日、いい天気だね」とか。
「その髪型、似合ってるね」とか。
頭の中には、いつもいろんな言葉が浮かんでいるのに、本人を前にした瞬間、全部、しゅん、と消えてしまうんだ。
「……すきだからだよぉ」
湯船の中で、ぽつり、と呟いた。
言葉は湯気にまぎれて、ふわりと天井へ昇っていく。
だめだ。
考え始めると、お風呂から出られなくなる。
風呂を出て、脱衣所で髪を拭きながら、わたしは小さく息を吐いた。
鏡の向こうで、湯上がりの自分と目が合う。
頬がほんのり桜色に染まっていた。
――こういう顔、好きだったり、するのかな。
そこまで考えて、ぱち、と目を伏せる。
何を考えてるんだろう。
きっと、わたしのことなんて、名前くらいしか知らないのに。
引き出しから、お気に入りのパジャマを取り出した。
淡いピンク色で、袖には小さなうさぎの刺繍。
学校のみんなには絶対に見せられない、ちょっと子どもっぽい柄。
でも、これを着ると、夜がふかふかになる気がする。
濡れた髪をタオルでぽふぽふと押さえ、そのまま背中へ流した。
湿った毛先が冷たい襟元に触れて、ひんやりとした感触が首筋をくすぐる。
部屋に戻ると、窓を開けた。
夜風が、ふわりと流れ込んでくる。
ベランダへ出ると、木のサンダルが、ぺた、ぺた、と小さく鳴った。
見上げた空には、大きな月。
雲の切れ間から、静かに街を照らしている。
――今ごろ、あの人も、この月を見ているのかな。
そんな保証なんて、どこにもない。
それでも、同じ夜に、同じ月を見上げていると思うだけで、少しだけ距離が縮まった気がする。
「樹くん」
誰にも届かないくらい小さな声で、名前を呼ぶ。
夜の風の中でだけ、わたしはその名前を、ちゃんと口にできる。
「樹くん……」
もう一度だけ呼ぶと、胸の奥が、じん、と温かくなった。
そっと、その場所を押さえる。
もし、いつか。
こんな夜に、隣同士で月を見上げられる日が来たら。
それだけで、きっと、一生幸せでいられる気がする。
――その時。
ふいに、視線の下のほうで、何かが淡く瞬いた。
「……え?」
手すりにそっと身を乗り出す。
庭の門のあたり。
街灯の下で、銀色の粒のような、やわらかな光が、静かにこぼれていた。
その中心に、ちいさな影が、ひとつ。
まるで月の光から生まれたみたいに、そこへ立っていた。




