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2/14

金髪幼女になった夜

 六時間目の終わりのチャイムが鳴って、担任がだらだらと連絡事項を読み上げていく。来週の模試の会場、進路希望調査の締め切り、廊下の掲示物のこと。窓の外では、秋の日がもうずいぶん低くなっていて、教室の白い壁をオレンジ色に染めている。


 俺は机の下でこっそり時計を見た。あと三分。特にどこかへ急ぐ用事があるわけでもないのに、なんとなく早く終わってほしいと思うのは、たぶん高校生なら誰でも同じだ。


「――以上。気をつけて帰るように」


 担任が教壇を離れると、教室が一気にざわつく。俺は鞄に教科書を突っ込んで、椅子の背にかけていたブレザーを羽織った。派手なグループが窓際で盛り上がっているのを横目に、廊下側の自分の席から、なるべく目立たないように出口へ向かう。


「あ、樹くん」


 背中に、控えめな声がかかった。


 振り返ると、西尾月菜(にしおつきな)が立っていた。クラスで、いや、学年の中で有名な美少女。

小柄で華奢な体を縮めるみたいに、鞄の持ち手を両手できゅっと握っている。艶やかな黒髪をきちんと肩の後ろに流していて、少し重めの前髪の奥、大きな瞳がおずおずと俺を見上げていた。置いていかれた子犬みたいな子だな、というのが、正直な印象だった。


「さ、さようなら」


 噛んだ。しかも自分で気にして、みるみる耳まで赤くなっていく。


 俺は一瞬、なんて返せばいいのか迷って、それから普通に頷いた。


「うん。さようなら」


 それだけ。特に何かの前触れがあったわけでもない、ただの挨拶。月菜はほっとしたような、それでも少し残念そうな顔で小さく頭を下げて、友達のところへ戻っていった。


 変な子だな、と思う。いつも律儀に挨拶してくる。俺は首をひねりながら、教室を出た。




 家に帰って、夕食を食べて、宿題を半分くらい片付けたところで、ふと冷蔵庫が空っぽだったのを思い出した。明日の朝食べるものがない。


 時計を見るともう十時近い。母さんはもう風呂に入っていて、父さんは書斎で仕事をしている。パーカーを羽織って、財布とスマホだけポケットに突っ込み、「コンビニ行ってくる」と書斎の扉の外から声をかけた。


 夜の住宅街は静かだった。街灯の間隔がやけに広くて、影と影の間を歩いていくような気分になる。空を見上げると、雲の切れ間から満月に近い月が覗いていた。妙に大きく見えて、なんだか落ち着かない。


 角を曲がって、小さな公園の脇を通り過ぎようとしたところで、足が止まる。


 視界の端で、何かが光った気がする。


 俺は反射的に足を止めた。公園の入り口、街灯の外れた暗がりに、人影がある。制服姿の女の子。うちの高校のブレザーだ。背丈が低く、長い青髪を揺らしている。青い瞳は穏やかで、どこかぼんやりして見える。誰だったか――そう、たしか、少し前に転校してきたライラって女の子だ。同じ学年の。


 その子の指先から、光の粒がこぼれていた。俺は目を疑った。


 いや、こぼれている、なんて言葉じゃ足りない。夜そのものが、彼女の指先で解けているみたいだった。銀色の砂のような粒が、細く長く糸を引いて宙へ流れていく。糸は途中でひとつずつ光る蝶になって、羽ばたきながら彼女のまわりを回り、やがて弾けるように消えていく。地面のあたりでは薄い青の霧が渦を巻いていて、その中に小さな星がいくつも瞬いていた。まるで空の一部分だけが切り取られて、ここに降りてきてしまったみたいに。


 息をするのも忘れて、俺はそれを見ていた。


 何を見ているのか、頭がついていかない。金木犀とは違う、どこか涼しくて甘い匂いも、あの子から漂ってくる。


 女の子がゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。目が合った瞬間、しまったと思ったが、もう遅い。


「……あー」


 困ったような、けれど不思議と焦っていない声だった。


「見られちゃったか。仕方ないよね」


 彼女はため息をひとつついて、指先の光を握り込むように消すと、代わりに手のひらから細い杖のようなものを引き出した。夜に溶けていた光の糸が、彼女の腕に絡みつくように集まって、一本の杖の形になっていく。淡く発光するその先端が、まっすぐこちらへ向けられた。


「動かないで。すぐ終わるから」


 逃げなきゃ、と思ったのに、足が動かなかった。声を出そうとしても、喉が詰まったみたいに息が漏れるだけ。


 杖の先が、ふっと光った。


 銀色の光が、粉雪のようにこちらへ舞ってくる。ひとひらが頬に触れた瞬間、視界がやわらかく白んだ。骨の奥から、熱でも冷たさでもない、何か甘やかな感覚がじわりと広がっていく。俺の体の輪郭がほどけて、作り直されていくような――


 ……なんだ、これ。


 目を開けて、俺はぎょっとした。


 目線が低い。ずっと低い。さっきまで同じくらいだったはずのあの子の顔が、はるか上のほうにある。見上げるってレベルじゃない。


 地面が近い。手も近い。俺の体の全部が、いっぺんに縮んでしまったような。


 肩に、ふわふわしたものが触れた。手で払おうとして、それが自分の髪だと気づく。指に絡んだ長い巻き髪は、月の光を集めたみたいに淡く金色に光っていた。指も、細くて、白くて、小さい。手首なんて折れそうなくらい細い。まるっきり子供の手だ。


 嘘だろ。


 思わず声が出そうになって、俺は口を開いた。


「な、なにこれ……?」


 自分の声じゃなかった。舌足らずで、甘くて、まだ幼い女の子の声。頭の中では「なんだよこれ」と言ったはずなのに、口からこぼれたのはやわらかい別の言葉。言葉が勝手に書き換えられていく感覚。


 パーカーはどこにいった。かわりに袖の膨らんだ、レースのついた見たこともない服が体を包んでいた。スカートの裾が膝の上でひらひらしている。襟元にちらりと見える小さな刺繍――星と、三日月。


 冷や汗が背中を伝う、はずだった。でも肌の感覚まで違っていて、汗ばむ、というより、頬がふわりと熱くなる、みたいな知らない反応が返ってくる。


「な、なんなのぉ、これぇ……」


 やめてくれ。俺は「なんで俺こんなことになってんだよ」と言ったつもりなのに、声はどこまでも甘く舌足らずに響く。


 目の前のあの子が、ため息をひとつついて、指先で小さな輪を描いた。その輪の中に、銀色の水面みたいなものが浮かび上がる。鏡だ。空中に浮かぶ、まあるい鏡。彼女はそれをそっと下げて、縮んだ俺の顔の高さに合わせてくれた。


「ほら、見て」


 こわごわ覗き込んで、俺は――息が止まった。


 鏡の向こうに、知らない女の子がいた。まだ幼い、小学生くらいの女の子。柔らかいウェーブのかかった長い髪、大きなまるい瞳、ふんわり赤くなった頬。サイドで大きなリボンが揺れていて、そこに三日月の飾りがついている。襟元にも、星の小さな刺繍。


 ……なんだよ、これ。


 絵本の表紙にでも載ってそうな顔だった。同じ学校の中等部にいたって、子供のくせに整いすぎだ、って言われそうな顔。


 鏡の中の女の子が、俺と同じタイミングで口を開けた。同じタイミングで、そろりと自分の頬に手を当てた。小さな指を動かせば、鏡の中の彼女も小さな指を動かす。


 俺だ。


 この、ちっちゃい女の子が。


「……わたし、おんなのこになってる?ふぇ……うそでしょぉ?」


 絞り出したつもりの言葉が、蚊の鳴くような細い声で出ていく。「嘘だろ」の「だろ」の部分が、勝手に「でしょ」に変換される。喉の奥で、俺の声は完全に閉じ込められていた。


「……困ったな」


 鏡の向こうで、ライラが小さくつぶやいた。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

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次回も楽しんでいただけるよう頑張ります!

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