花火色の君
山の上の境内は、お祭り一色だった。
参道の両側にずらりと屋台が並んで、ソースと砂糖と焼きとうもろこしの匂いがぜんぶ混ざって漂ってくる。提灯の下を浴衣の人波がゆるゆると流れて、どこかで射的の景品が落ちる音と歓声が上がった。
「樹くん樹くん、見て、チョコバナナ! あっちベビーカステラ! えっ、待って、電球ソーダってなに? 飲めるの? 電球なのに?」
「電球の形の容器なんだと思う。美味しそうだね」
「うん!飲んでみたいな。じゃあ光る? 飲んだらお腹光っちゃう?」
「……光は、しないんじゃないかなぁ」
「なんだあ」
なんだあ、って。ちょっと残念そうなのが、月菜らしかった。
数日前まで凍っていた境内が、今夜はこんなにあったかい。焼きそばの鉄板の湯気の向こうに、あの絵馬掛け所もちらりと見えた。提灯の明かりが、絵馬たちをやわらかく照らしている。
「よし! まずは作戦どおり、りんご飴!」
月菜は屋台の前で真剣に吟味して、いちばん大きいのを選んだ。受け取った瞬間、両手で掲げて、拝みそうな勢いだった。
「見て、つやっつや。お祭りの宝石だよこれ」
「……確かに、光ってる」
「でしょ! いただきますっ」
かじりつく。かこん、と音がした。
「っ、固い! 樹くん、りんご飴ってこんなに強かったっけ!?」
「食べたことないけど、強そうだよね」
「歯が負けそう! でも負けない! わたしは食べる!」
月菜は角度を変え、場所を変え、三度目の挑戦でようやく飴の壁を突破した。よかったね、と俺は素直に思った。
金魚すくいの屋台の前で、月菜がぴたりと止まった。にやり、と笑ってこっちを見る。
「金魚すくい係、出番です」
「あ、うん。……でも俺、ほんとにやったことないよ?」
「だからわたしが講義します! いい? ポイはね、水に対して斜めに入れるの。で、金魚は頭からじゃなくて尻尾から追い込んで――」
俺と月菜のポイはすぐに破れた。
「な、なんで!? 動画どおりにやったのに!」
「う、うん……水が、強かったのかも。……動画?」
しょんぼりする月菜に、屋台のおじさんが「ほい、おまけ」と金魚を一匹すくって渡してくれた。
「……もらっちゃった」
「よかったね」
「嬉しい。嬉しいけど、ちょっと悔しい。この子、実力でお迎えしたかったなあ」
「……じゃあ、来年の宿題、かな」
言ってから、あ、と思った。
来年、って。来年も一緒に来る前提で、口が勝手に。
月菜がゆっくりこっちを見た。笑顔になる。
「来年! うん、来年ね! ふふ、樹くんから宿題出されちゃった」
「い、いや、今のは、その」
「忘れちゃだめだからね? わたし、宿題はちゃんとやる派なので!」
金魚の袋を大事そうに抱えて、月菜がずんずん先を歩き出す。耳が赤かった。俺の顔も熱かったけれど、たぶん、並んでいる屋台の鉄板のせいだと思うことにした。
射的で全弾外し、ベビーカステラを分け合って、電球ソーダを月菜が「やっぱり光らない!」と報告してくる頃には、夜がすっかり深くなっていた。
『――えー、まもなく、花火の打ち上げが始まります。ご観覧の方は、社殿裏の広場へお進みください』
拡声器の、のんびりした声が境内に響いた。
周囲の動きが変わっていく。みんなが口々に花火の話題になる。
「花火だって!」
「行こ行こ、場所取らないと!」
人の波が、いっせいに同じ方向へ動き出す。
ゆるゆる流れていたはずの参道が、あっという間に激流になった。前からも後ろからも押されて、足が地面から浮きそうになる。
「わっ、と、樹くん!?」
金魚の袋を抱えた月菜が、人波に押されてずるずる流されていく。
「西尾さん!」
呼んだ声は、祭囃子とアナウンスと歓声に飲まれた。
「西尾さん!」
届かない。
浴衣の背中がいくつも割り込んできて、あの朝顔の柄が、あっという間に見えなくなった。
まずい。
俺は人の流れに逆らって、必死に前へ出た。肩がぶつかる。すみません、と何度も言いながら、頭ひとつぶん背伸びして、あたりを見回す。
似た浴衣ばかりで、見つからない。
――どこだ。
焦りがじわりと背中を這った。
射的の屋台の脇。人波が少し途切れたところ。
そこに、月菜がいた。
金魚の袋とりんご飴を胸に抱えて、その場に立ち止まっている。きょろきょろと、人の顔をひとつずつ確かめるみたいに見回して。
そこに、大学生らしき男の二人組が月菜に声をかけるのが見えた。
月菜の表情に怯えの色が混じる。手を前に出して、何かを断ろうとしていた。
片割れの男の手が月菜に伸びる。それを見た時。
考えるより先に、口が勝手に動いていた。
「月菜!」
大声で名前を呼んだ。
弾かれたように、月菜が振り向く。
俺を見つけた顔が、ぱっと、ほどけた。
「樹く……っ」
言い終わる前に、俺は手を伸ばして、その手を取った。
人の隙間から引き寄せて、人ごみを駆ける。
しばらくしたところで気づいた。
……手を、握っていた。俺が。月菜の手を。
心臓がうるさい。手のひらから月菜の体温が伝わってくる。指が細い。あったかい。どうしよう。女の子の指ってこんななのか。手を繋いでいるだけで普通ではいられない。
人波に押されるまま、社殿裏の広場まで流れていく。何か言わないと。何か。でも「手」のことしか考えられなくて、頭の中が完全に真っ白になっていた。月菜も前を向いたまま、とてとてと歩いている。ぜんまい仕掛けのお人形みたいになっている。
だめだ気まずい。これは俺のせいだ。いきなり握ったから。
――どおん。
腹の底に響く音がした。
「あっ、花火!」
夜空に、大輪の光が咲いていた。
金色の光がまあるく開いて、しだれ柳みたいに、しゃらしゃらと枝垂れて落ちていく。消えかけた光の先で銀の粒がぱちぱちと瞬いて、夜に溶けた。
どおん。どおん。
赤の菊。青の牡丹。開いては散り、散る光が尾を引いて、また次の花が開く。
その光の下で、俺はようやく口を開いた。
「……ご、ごめん。嫌だったよな。咄嗟で」
そう言って、手をゆるめようとした。
その瞬間だった。
「い、嫌じゃ、ないよ?」
月菜が、ぱっとこっちを向いた。
それから、うつむいたまま、ぽつりと続けた。
「……あのね。さっき」
「ん」
「名前、呼んでくれたでしょ」
俺は、言葉に詰まった。
咄嗟だった。西尾さん、ではだめな気がした。届かせたかったから。
……いや、それだけじゃないのかもしれない。
「あの、私、本当に怖かったの」
月菜が、少しだけ笑う。
「あの時、けっこう泣きそうだったから」
「……ごめん」
「でも」
「嬉しかったの」
繋いだ手に、ほんの少しだけ、力がこもった。
俺は、ゆるめかけた手を、そのままにした。
頭の上で、また花が開く。
「怖かったけど、そんなこと忘れちゃうくらい、嬉しかったの。樹くんが、私を見つけてくれて」
「見つけられて、よかったよ」
「ふふ、うん」
きゅ、と。
俺は手に力をこめる。
「……月菜」
もう一度、名前で呼んだ。
今度は、俺自身が望んで呼んだ。
月菜がぱっと俺を見た。
俺も月菜を見ていた。
目が合った。
花火の明かりの中で、月菜の頬は赤くて、目は少し潤んでいて、口元はきゅっと結ばれているのに、こらえきれない何かが、ふわりとほどけて――笑った。
どおん、と特大の一発が上がった。広場が昼間みたいに明るくなって、わあっと歓声が包む。
「見た!? 樹くん、いまの! おっきかった!」
「……うん」
金、桃色、青。開くたびに、月菜の頬の上で光が生まれては消えて、大きな瞳の中には小さな花火が、まるごと咲いていた。
繋いだ手は、そのままだった。どっちも、離そうとしなかった。月菜がもらった金魚が袋の中で、他人事みたいにすいすい泳いでいた。
空から、光の雪が降っている。みんなはそれに夢中で見上げる。
でも、
俺は、花火よりも、月菜を見ていたと思う。
ーー花火に彩られる君が、綺麗だと思ったんだ。




