お祭りへ向かう2人
日曜日は雲ひとつない夕方から始まった。
俺は約束の三十分前に家を出た。早すぎるのはわかっていた。それでも、部屋にいるとスマホばかり見てしまい落ち着かない。早く体を動かしたかった。
坂道を登りながら、ポケットからスマホを取り出す。
昨夜のやりとりがそのまま残っていた。
『明日、五時に石段の下でいい?』
『大丈夫! 五時だね』
律儀にお辞儀するうさぎのスタンプ。
少し間があって、
『すごく楽しみ!早く行きたいな』
なんとなく、何度も見返してしまう。
空を見上げると、夕暮れの藍色の中に、白い月がもう浮かんでいた。
いつもならルナになるはずの月。
祭りに誘ったはいいものの、ルナになることは避けられない。どうしようかとライラに相談してみたら、あっさりと解決策を言ってのけたのだ。
『一晩くらいなら、ルナになるのを止められる』
衝撃の事実だった。
じゃあ毎日そうしてくれと言ったのだが、どうやら大変な魔力を使うようで、一晩が限界ということだった。
今、俺の体のどこかでライラの魔法が静かに働いている。ルナになるのを押さえつけてくれている。
どこかで見てるんだろうな、と思う。お礼は後で言うことにしよう。そうだ、唐揚げあたりをお土産に買ってやろう。
*
石段の下に着くと、祭囃子が山の上から降ってきていた。
提灯が点々と灯って、浴衣姿の親子連れやカップル、はしゃぐ子供たちがぞろぞろと登っていく。
スマホで時間を確認する。約束の五分前。俺は柄にもなく、シャツの襟を直したり前髪を触ったりした。鏡なんて持っていないから、どう変わったかわからないのに。でも、なんかそわそわする。
もうすぐ月菜が来る。そう考えるだけで落ち着かない。
人混みの中で、ふと、周りの視線が動いたのに気づいた。
何人かが、同じ方向を見ている。
つられて振り返って――俺は、固まった。
月菜だった。浴衣を着ており、こちらに向かってきている。
白地に、淡い青の朝顔が散った浴衣。帯は金魚みたいな赤で、いつも下ろしている後ろ髪を今日は上げて、うなじのところでまとめている。
人の流れの中で、そこだけ明るく見えるのは気のせいじゃないと思う。
すれ違う人が、「あの子可愛くね?」と何人も振り返っていく。当の本人は、まるで気づいていないようだった。
「――樹くん!」
俺を見つけた瞬間、月菜が駆け出した。
下駄をからころ鳴らして、小走りに。裾が乱れないように片手で押さえながら、それでも急いで。
「ごめんね、待った!?」
「……い、いや。今来たとこ」
定型文しか出てこなかった。
だって、しょうがないだろ。いつもの月菜と違いすぎる。なんていうか、浴衣ってすごい。それに学校で会うのとはわけがちがう。いろんな感情が溢れてきてしまう。
「えへへ」
月菜が笑って、それから静かになる。頬が赤い。
俺も顔が熱くなってきたのを感じる。何か話さなきゃ、と思うけど続く言葉が出てこない。
目が合って、二人同時に逸らす。
……なんだこれ。学校では毎日話しているのに。
「あ、あの」
「あのさ」
声が重なった。
「ど、どうぞ」
「いや、そっちが先で」
「えっと……」
月菜がそわそわと帯のあたりを触る。
「浴衣、おばあちゃんが着せてくれたの。ど、どうかな」
その場でちょっとだけ、くるりと回った。
朝顔の裾がふわりと揺れて、帯の赤が提灯の明かりを映す。
かわいい、と思った。思ったのに口が動かなかった。ルナだったら一秒で言えるのに。「かわいい!」って、拍手つきで言えるのに。樹の口はこういう時、まったく役に立たない。
「……似合って、る」
絞り出したのが、それだった。
それでも月菜は、ぱあっと顔を輝かせた。
「! ……えへ、えへへ。ありがと」
真っ赤になって、口元を袖で隠して、月菜が笑う。
そこでようやく、二人の間の空気が、少しだけほどけた気がした。
*
石段を登り始める。
参道の両側に屋台が並び、まだ日の残る空の下で、電球がじりじりと灯り出していた。
人の波が、ゆっくりと上へ流れていく。
手を繋いだカップル。肩車をされた子供。浴衣の裾を気にしながら笑い合う女の子たち。屋台の前で財布を出す父親と、それを見上げる小さな娘。
月菜がふいに足を止めた。
あたりを、ぐるりと見回している。
「どうかした」
「ううん。……なんかね」
月菜は、少し眩しそうに目を細めた。
「みんな、幸せそうだなあって」
その視線の先で、綿飴を受け取った子供が、飛び跳ねて喜んでいた。
提灯の明かりが、頬を柔らかく照らしている。
「……ふふ」
「なんだよ」
「なんでもない。えへへ」
月菜は袖で口元を隠して、それから、ぱっとこちらを向いた。
「じゃあ、行こっか!」
「ああ」
「目指すはりんご飴! 元気なうちに、おっきいのから!」
「なんだその作戦」
「りんご飴優先理論です!」
「誰が考えたんだ、それ」
「……えっと、私が!」
月菜が下駄をからころ鳴らして、石段を登り出す。
俺はその隣に並んで、一段ずつ、祭りの光へ登っていった。




