ドライヤーの音がやむまで
加速の練習を切り上げ、月菜はそのまま俺を家へ引っ張っていった。そのまま脱衣所に監禁される。
「このままじゃ風邪ひいちゃう! お風呂入ろ、お風呂!」
「え、あ、おふろ」
「わたしが洗ってあげる! お湯もあったかくて気持ちいいよー!」
両手をわきわきさせて迫ってくる月菜に、俺の背筋が凍った。
これはやばいやつだ。
女子の同級生と風呂。しかも体を洗われた後に一緒に湯船なんて、天地がひっくり返っても無理だ。
「じ、じぶんであらえる!」
「またまたー。ボタン留めるのも危なっかしいのに?」
「あらえるもん! るな、おっきいもん!」
「ちっちゃいでしょ!」
「おっきい!」
脱衣所の前で、謎の攻防が始まった。月菜が俺の服を脱がせようと立ち塞がり、俺はそれを避けていた。
「もう、素直じゃないんだからー」
「ひとりではいる! ぜったい、ひとり!」
俺の必死の形相に、月菜もようやく折れた。
「わ、わかったよぉ。じゃあ、ひとりで入れる?」
「はいれる」
「ちゃんと温まるんだよ? のぼせない程度に浸かりなね」
「わかったよぅ……」
母親か。
俺は借りたタオルを抱えて、服を着たまま逃げ込むように浴室へ滑り込んだ。扉を閉めて、ようやく息をつく。危なかった。俺はルナと月菜の両方を救ったのだ。
服を脱ぎ、温かいシャワーを頭から浴びると、冷えきった体がじんと解けていく。
……しかし、これはこれで、状況がおかしい。
夜十時過ぎ、同級生の家のシャワーを幼女の姿で浴びる男子高校生。字面が完全に事件だ。もし今魔法が解けたらどうなるだろう。想像して、ゾッとした。
「ルナちゃーん、生きてるー?」
扉の外から声がした。
「お姉ちゃんも入っていいー?」
「……っ!?だめっ!」
「冗談だよぅ」
やっぱり気が休まらない。俺は光の速さで体を洗い、早々に出ることにした。
*
俺が上がると、入れ替わりで月菜が風呂に入った。
貸してもらったパジャマは、やっぱり大きすぎた。袖はだぶだぶ、裾は床に届きそうで、鏡に映った自分は、親の服を勝手に着た子供そのものだった。このパジャマが誰のものなのか、俺は考えないことにした。もはや色々と限界なのだ。月菜が「これ、私のお気に入りなんだよ。ルナちゃん、着てみて!」と言っていた気がしたが、きっと気のせいだ。
濡れた髪が、まだ首筋に張りついている。タオルでぐしぐし拭いても、細かい毛先は乾かないままだった。
*
湯上がりの月菜が、ほかほかと湯気を立てて戻ってきた。
俺の頭を見るなり、目を丸くする。
「あー! ルナちゃん、髪ぜんぜん乾いてないじゃん! そのままだと風邪ひくよ!」
「ちゃんとふいたもん」
「拭くだけじゃだめ! こういうのはきちんと乾かすの! はい、こっち座って」
ドライヤーを手に、月菜が床にぺたんと座って、自分の脚の間をぽんぽんと叩いた。
ルナは、魅力を感じると従ってしまう。俺はおずおずと、そこに背中を預けて座る。
ぶおー、と温かい風が、後ろから髪を撫でていく。
月菜の指が、俺の髪をやさしく梳いた。ひと房ずつ持ち上げて、根元に風を通していく。丁寧で、慣れた手つきだった。正直気持ち良い。
「ルナちゃんの髪、ふわふわだねえ。羨ましい」
「おねえちゃんのは、さらさら」
「えへへ、そう?」
温風の音に混じって、月菜の機嫌のいい鼻歌が聞こえる。
背中に伝わる体温が、風呂上がりでいつもより温かい。俺は、なんだか妙に眠くなってきた。
「今日ね、すっごい転んだけど」
髪を乾かしながら、月菜がぽつぽつ話し出す。
「加速の魔法、ちょっとだけ、掴めた気がするんだ」
「うん。すべってた。きれいだったよ」
「ほんと!? えへへ、嬉しい」
ドライヤーの風が、いったん止まる。月菜が、俺の髪を後ろで軽くまとめて、指で梳きながら続けた。
「止まるのは、まだ全然だけどね。でも、練習すれば、きっとできるようになるよね」
「なるよ。おねえちゃん、めげないもん」
「むふー、そうでしょう」
得意げな声。
「あのね。わたし、ほんとはね」
髪を梳く手はそのままに、月菜の声のトーンが落ちる。
「勇気出すの、苦手なんだ。かけらの子たちと戦う時、いつもドキドキするし、樹くんとも、うまく話せないし」
「うん」
「言いたいこといっぱいあるのに、いつも半分も言えなくて。あとで、ひとりで、あーって落ち込むの。そういう自分、ちょっと嫌いなんだ」
ドライヤーの風の向こうで、月菜がふにゃ、と情けなく笑う気配がした。
「でもね」
止まっていた手が、また動き出す。俺の髪を、ゆっくりと梳きながら。
「ルナちゃんが一緒だと、なんでか、もうちょっと!て、踏み出せるの。怖くても、やってみようって思える。ルナちゃんがいてくれると、わたし、ちょっとだけ、勇気出せる子になれる気がする」
「おねえちゃんは、すごいこだよ」
「え……そんなことないよぉ。怖がってばっかりだもん」
「こわくても、にげないもん。こわいのに、やるもん。それ、いちばんすごいんだよ」
月菜の手が、また止まった。
しばらく、ドライヤーの音だけが響いていた。
――この子は、たぶん自分でわかっていない。
怖いのに逃げないことが、どれだけ難しいか。立ち上がることが、どれだけ強いことか。勇気を出すのが苦手だと言いながら、この子はいつも、震える足でちゃんと前に出ているんだ。
俺は、月菜のそういうところを、素直に尊敬していた。
「るな、おねえちゃんのこと、だいすき」
口が、勝手に動いた。
ルナの素直さが、俺の中の言葉を追い越して、ぽろりとこぼれる。
「っ……!」
背中で、月菜が息を呑むのがわかった。
「……えへへ。わたしも、ルナちゃんのこと、大好き」
少し照れたその声のあと。
ふいに、後ろから、ぎゅっと抱きしめられた。
月菜の腕が、俺の肩の上でそっと交差する。湯上がりの温もりが、背中いっぱいに伝わってきた。石鹸の匂いが、ふわりと近くなる。
「わ、わっ、おねえちゃん?」
「んー。ちょっとだけ」
月菜が、俺の頭に頬をすり寄せた。
「ルナちゃんが可愛いこと言うから。充電させて」
「じゅうでん……」
「そう。明日もがんばれるように」
腕の力は、強くも弱くもなく、ただ、あたたかかった。
俺は、どうしていいかわからないまま、されるがままになっていた。振りほどくなんて、できるはずもない。ここで暴れたら、この時間が壊れてしまう。
――そう自分に言い訳して。
本当は、ほんの少しだけ、この温もりから離れたくなかったことに、俺は気づかないふりをした。
「……もうちょっとしたら、はなすからね」
「……うん」
月菜の鼓動が、背中越しに、とくとくと伝わってくる。
その規則正しい音を聞いていたら、さっきまでの眠気が、また、ゆっくりと戻ってきた。
乾いていく髪の間を、月菜の指が、ゆっくりと通り抜けていく。
あんまり気持ちよくて、俺は結局、その温もりの中で、こっくりこっくり船を漕いでいた。
*
翌朝。
自分のベッドで目を覚ました樹は、天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
月菜に、髪を乾かしてもらった。あの、風呂上がりの温もりで。背中を預けて、抱きしめられて、眠りかけるまで。
……いや、あれはルナに、だ。ルナに、であって、俺に、じゃない。
何度もそう言い聞かせて、それでも収まらない胸のあたりを持て余して、俺は枕に顔を埋めた。




