名前ひとつぶん、近づいて
2つ目のはつこいのかけらを手に入れてからしばらく経った。
普段通りの学校。
三時間目と四時間目の間の休み時間、俺は自分の席で文庫本を開いていた。
「樹くん」
声に顔を上げると、月菜が立っていた。両手を体の前で組んで、やけに姿勢がいい。
「あ、西尾さん」
「今日も、本、読んでるんだね」
「うん」
「そ、そっか。うん」
そこで会話が止まる。
月菜は何か続けようとして口を開きかけては閉じ、視線を右に左に泳がせている。俺も俺で、何を言えばいいのかわからず、ページを指で押さえたまま固まった。
「……な、何の本?」
「ミステリー。船の上で人が消えるやつ」
「消えるの!? 海に落ちたんじゃなくて?」
「それがそうじゃないから面白いんだけど」
「そうなんだ! 面白そう!」
ぱっと声が弾んだ。
——と思ったら、そこでまた止まる。
月菜は「面白そう」の先を探すみたいに口をもごもごさせて、結局、小さく頷くだけになった。
「……よ、読み終わったら、どんな話だったか教えてね」
「あ、うん。いいけど」
「うん! じゃ、じゃあ!」
月菜はぺこりと頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
俺は開いたままの本に視線を戻す。
最近、こういう時間が増えた気がする。月菜から話しかけてくるが、長くは続かない、ぎこちない会話。
……あの子、俺のことが好きなんだよなぁ。
どうしてもそう考えてしまう自分がいる。
最近俺も分かったが、月菜はいい子だ。顔だけじゃない。明るく朗らかな性格。守ってあげたくなる雰囲気。きっと彼女になってくれたら毎日が楽しいんだろう。
そんな月菜が、俺を好きだと言っていた。
本当になぜかわからない。月菜は助けてもらったことがあると言っていたが、やはり心当たりがない。
それでも考えた瞬間、頬がじわりと熱くなるのを感じた。
※
――また、うまく話せなかったよぉ。
私は自分の席に戻ると、机に突っ伏したい衝動を必死でこらえた。
違うの。聞きたいことはもっとあった。主人公のこととか、どんなところが面白いのかとか、樹くんがいつから本を読むようになったのかとか。
いっぱいあったのに。
なのに出てきたのが「教えてね」って。
会話終わっちゃうじゃん……。
でも。
今日、「面白そう」までは言えた。
昨日より会話も続いた気がする。
よし。落ち込まない。
明日はあと一言、ちゃんと続けよう。
月菜はぐっと拳を握った。
そして前の席の子に「西尾さん、どうしたの」と少し引かれた。
※
次の日の休み時間も、月菜は来た。
「い、樹くん、本、進んだ?」
「ちょっとだけ。犯人はまだわかんない」
「そっか!」
月菜は一度深呼吸したあと、少しだけ勇気を足すみたいに続けた。
「わたしの好きなものの話も、していい?」
「西尾さんの?あ、うん。どうぞ」
「わたしね、最近、お花を育ててるの!」
知ってる。と、言いかけて慌てて口を閉じる。
「白いお花でね、最近買ったの。毎朝お水あげてて、つぼみがふたつついてて」
「へえ。咲きそう?」
「もうちょっとかなあ! 咲いたらね、その……と、とにかく楽しみなの!」
月菜はあれから、大切に花を育てている。はつこいのかけらの主に寄り添うために。
そんな月菜は、人として素直に尊敬できると俺は思う。
「樹くんも、お花育てたことある?」
「小学校のアサガオくらいかな」
「アサガオ! いいよね! 夏休みに持って帰るやつ!」
「水やり忘れて枯れたけどね」
「ええー!?」
月菜が本気で驚く。
「か、枯らしちゃだめだよ! お花も生きてるんだから!」
「面目ない」
「よし。じゃあ樹くんには、水やり係の心得を教えます」
月菜は真面目な顔で「まず朝、土を見るところからです」と講義を始める。
そんな月菜を見ているのが楽しくて。どんどん話が続いていく。主に話すのは月菜の方だが。
結局、チャイムが鳴るまで、その説明は途切れなかった。
※
4時間目の授業が終わり、昼になった。
俺と月菜、ライラの3人で食べるのは、もはやお馴染みの光景になっていた。
「今日の卵焼きは、チーズ入り」
「ライラちゃん、開ける前からわかるの!?」
「ふふん。においでわかる」
「犬じゃん!」
俺が突っ込む。
「樹はまだまだ甘い」
「俺はまだ人間でいたいよ」
「ふふっ」
月菜が笑いながら卵焼きを分ける。
ライラは幸せそうに頬をゆるめた。
「月菜、ちなみに明日は?」
「明日のはまだ作ってないよ!?」
「ウインナーがいい」
「じゃあ、たこさんにしてあげるね」
「やった」
俺は唐揚げを一つもらいながら、そのやり取りを眺める。
きっとライラが犬だったら尻尾をプロペラのように振っていただろう。
それを想像して、少し笑ってしまった。
「む、樹。生意気」
「なんでだよ!?」
「私を見て笑うなんて百年はやい」
いつもの楽しい時間。だから油断したんだろう。
「ライラって、弁当の時は子供っぽいと思う」
「月菜も、そう思うよね?」
言ってから、俺は固まった。
月菜、と。
今、名前で呼んだ。西尾さん、じゃなくて。
自分で言っておいて、自分がいちばん驚いていた。今まで一度も、そんなふうに呼んだことなんてなかったのに。
「……っ」
箸を咥えた月菜が、目を大きく見開いたまま、動かなくなっている。頬が、みるみる赤く染まっていく。
「い、今」
「あ」
「い、樹くん、今、わたしのこと」
「……あー、いや、これは」
しまった、と思ったけれど、もう遅い。
訂正すればするほど、変な感じになる気がする。
俺は言い訳を探して、結局見つからなくて、口をぱくぱくさせるだけになった。じわじわと、耳のあたりが熱くなってくる。うつむいた口元が、ゆるんでいた。隠しきれていない。
「……えへへ」
「ご、ごめん。西尾さん、急に嫌だったよね?」
「嫌じゃないよ?」
すぐに月菜は答えた。
そして、俺の目を覗き込みながら続ける。
「……もう一回、呼んでほしいなあ」
頬を赤らめながら、言ってくる。
俺はもう色々と限界だった。
「よ、呼ばない」
「ええー」
「もうこの話はおしまい!」
「けちー!」
月菜が唇を尖らせる。でも、すぐに笑顔になる。
――と、そこで。
「私は?」
完全に置いてけぼりにされていたライラが、じとっとこちらを見ていた。
「私のことも、名前で呼んで」
「ライラは最初からライラだよ」
「あ。そうだった」
あっさり引き下がるな。
月菜が、こらえきれずに噴き出した。
「ふふっ、ライラちゃん、それ!」
「なにかおかしい?」
「おかしいよぉ」
二人が笑い合っている。
俺はまだ火照りの引かない頬をごまかすように、お茶を一口飲む。
……月菜、か。
しばらく顔を見て話せそうにないことだけは、分かった。




