その思いは、きっと誰かに届くから
流れ込んできたのは、俺の記憶じゃない。
誰かの、遠い記憶だった。
*
――先輩を初めて見たのは、入学式の日だった。
在校生代表で挨拶をしていた、吹奏楽部の先輩。
壇上で少し緊張しながら原稿を読む横顔が、高い窓から差し込む春の光に照らされていた。
それを見ただけ。
それだけで、わたしは先輩が好きになってしまったんだ。
すぐに吹奏楽部に入った。
楽器なんて触ったこともなかったのに。
「上手くなってきたじゃん」
譜面台越しに笑うその顔を見るために、わたしはどのくらい練習しただろう。
息が続かなくて苦しくても、その言葉が聞けるなら、何度でも吹けたんだ。
*
先輩に彼女がいると知ったのは、二年生の秋だった。
音楽室の窓から、中庭を歩く二人が見えた。
隣には、綺麗な彼女。
同じクラスで、先輩から告白したらしい。
先輩は、わたしに向けるものとは違う笑顔で笑っていた。
ああ。
あれが、本当の「特別」なんだ。
それから私は、きちんと「後輩」になれたと思う。
後輩として教わって。
後輩として笑って。
その毎日を繰り返していく。
だけど、好きは、消えなくて。
行き場だけが、なくなっていって。
毎日、シャワーを浴びながら泣いていた。
*
卒業式の朝。
わたしは花屋で、小さな花束を買った。
カスミソウが入っている花束。私の思いは、先輩には届かないだろうけど。
それでも、最後に先輩と話したい。
「卒業式ですか」
店員さんに聞かれて、
「はい」
とだけ答えた。
「きっと喜びますね」
三年間、ありがとうございました。
その一言だけでも。
花束だけなら、渡してもいいと思った。
*
校門の前は、人でいっぱいだった。
先輩はすぐに見つかった。
第二ボタンのなくなった制服。
その隣には彼女さん。
腕いっぱいの花束を抱えて、二人で笑い合っていた。
写真を撮って。
友達に囲まれて。
幸せそうで。
気づくと、わたしは花束を後ろ手に隠していた。
「おう! 来てくれたのか!」
先輩が笑って手を振る。
だから、わたしも笑った。
「卒業、おめでとうございます」
それだけ言って、頭を下げた。
「来年は部長だろ。頑張れよ」
「はい」
「音、まっすぐでいいんだから、自信持てよ」
「……はい」
先輩は笑って。それきり、私の方は見ずに。
そのまま彼女さんと並んで歩いていった。
*
帰り道。
川沿いの土手に座って、膝の上の花束を見つめていた。
渡したかった。
ただ、それだけだった。
だけど、やっぱり、届かなかった。
カスミソウの上へ、ぽた、と雫が落ちた。
*
夜の海の上。
気がつくと、月菜が泣いていた。
杖にまたがったまま、ぽろぽろと涙をこぼしている。
俺は月菜の背中へ、小さな手をそっと添える。
何も言えず、無かったことにされた思い。だけど確かにあった思い。
花屋の前で立ち止まっていた白いユニコーン。
あと少し。
あと数センチ。
その距離だけが、どれだけ速くても、どうしても届かなかったんだろう。
光の粒が、ひとつ、またひとつと集まり始める。
やがて月明かりを閉じ込めたような、小さな結晶が生まれた。
二つ目の、初恋のかけら。
月菜が両手を差し出すと、かけらはふわりと舞い降りる。
「……ちゃんと、届いたよ」
月菜はかけらを胸へ抱き寄せた。
「あなたの気持ち、ちゃんと聞いたからね」
月菜の声はあたたかく、力強く、夜に響いた。
*
帰りの空は、行きよりずっとゆっくりだった。
月菜は泣きやんだあとも、鼻をずびずび鳴らしながら杖を操縦していた。
「ずび……ルナちゃん、ティッシュもってない?」
「もってないよぉ。このふく、ポケットないの」
「魔法少女の服、ポケットないの不便だねぇ……ずび」
「おねえちゃんのふくは?」
「あっ、ポケットある! ……でも、ティッシュ入れてない!」
「いみないよぉ!」
二人で笑う。
夜風が、涙の跡をやさしく冷ましてくれた。
眼下の街は、何事もなかったように眠っている。
壊れた広場のベンチだけが、あの白い光が駆け抜けた夜を静かに覚えていた。
「ねえ、ルナちゃん」
「なあに?」
「わたし、決めた」
「うん?」
「明日ね、お花を買うの」
「おはな?」
「お部屋に飾る。あの子の思い、もっと見ててあげたい」
この前、魔法少女の服を買ったばかりなのに。
そんなことを思ったけれど、言わないでおいた。
「……うん!」
「それ、すっごくいいとおもう!」
「でしょー!」
月菜が笑って、杖が少し揺れる。
「わわっ!」
「ごめんごめん!」
慌てて月菜のお腹にしがみつく。
街灯の下では、肉まんを片手にしたライラが、何事もない顔で歩いていた。
ふとこちらを見上げ、グッと親指を立てる。
それだけで十分だった。
月は、帰り道の二人と、一人を、静かに照らしていた。




