月夜に重なる二人の時間
その夜。
満月が、静かに夜空へ浮かんでいた。
俺はまたルナになって、月菜の家のベランダへ向かった。
ライラに浮かされてベランダへ。窓を軽く叩く。
すぐにカーテンが揺れて、月菜が顔を出した。
「ルナちゃん!」
いつもの笑顔。
……なんだけど。
いつもより明るい声のような。
月菜がずーっと、にこにこしているような。
口元を押さえているのに、隠しきれないくらい頬が緩んでいる。
夜風に当たっているのに、頬はずっと桃色のままだった。
「おねえちゃん」
「ん?」
「なんか、いいことあったの?」
そう聞くと、月菜は一瞬きょとんとして。
それから、
「……えへ、わかる?」
小さく笑った。
両手で頬を包む。
「あのね、ルナちゃん」
「うん」
月菜は少しだけ身を乗り出して続ける。
「今日、樹くんとクレープ食べたの」
心臓が、どくん、と跳ねる。
「学校の帰りにね、クレープ屋さんの前を通って」
月菜は、今日の出来事を大切に並べるように話し始める。
「樹くんがね、『食べていく?』って言ってくれたの」
その時のことを思い出したのか、また頬が赤くなる。
「二人でベンチに座ってね」
「うん」
「夕陽がきれいで……」
月菜はふわっと笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が、あたたかくなる。
「いっぱい話せたわけじゃないんだよ?」
月菜は照れくさそうに指を絡める。
「緊張して、変なこと言ってなかったかなって思うし……」
小さく笑う。
「でもね」
月菜は月を見上げた。
「樹くんと一緒にクレープ食べた時間が、すごく楽しかった」
「……」
「帰り道もね」
月菜は嬉しそうに続ける。
「隣を歩いてくれたの」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
俺にとっては。
ただ帰り道を一緒に歩いただけ。
ただクレープを食べただけ。
でも。
月菜にとっては、それがこんなにも大切な思い出になっている。
「今日のことたぶん、ずっと覚えてると思う」
その顔は、今まで見たどんな笑顔より嬉しそうだった。
「……そうなんだ!よかったね、つきなおねえちゃん!」
「うん」
月菜は幸せそうに頷く。
「えへへ……」
また笑う。
その笑顔を見ていたら。
やっぱり俺まで、嬉しくなってしまう。
※
月菜の部屋に入れてもらう。
しばらく、夜の気配を探ってみた。
初恋のかけら。
あの粘ついた魔力の気配。
でも今夜は、どこにも感じない。
「うーん。きょうは、いないみたい」
「そっかぁ」
月菜は少し残念そうに空を見上げた。
「じゃあ、どうしようか」
「んー……」
俺は少し考える。
せっかくの満月の夜だ。
「おねえちゃん、まほうのれんしゅう、しない?」
「魔法?」
「うん。まだレイとシールド、ちゃんとつかえてないでしょ」
「確かに!やりたい!上手になりたい!」
その勢いのままクローゼットを開ける。
俺は目を両手で隠す。布擦れの音が心臓に悪い。
そして数分後。
月菜は――。
例のジャージ姿だった。
中学の名前が入った、少し色褪せた紺色の上下。
「ルナちゃん、行こう!」
月菜に手を引かれる。
両親に気づかれないように、そーっと、階段を降りていくのだった。
*
人気のない夜の公園へ移動する。
「じゃあ、まずはレイから」
「うん!」
月菜は杖を握る。
「レイ!」
杖の先から光が走る。
空き缶で作った的の真ん中に当たった。
「やった!」
月菜は両手を上げて喜ぶ。
「当たった!」
「おねえちゃん、すごいよ!」
「えへへ。外す気がしないのです」
嬉しそうに笑う。
グリフォンとの戦いでもうコツを掴んだのだろうか。
ジャージなのに、本当に魔法少女っぽく見えてしまう。
しばらく練習したあと。
月菜が、ふと思い出したように口を開いた。
「あのね、ルナちゃん」
「ん?」
「グリフォンを倒したあとなんだけど」
「うん」
「家に帰ってから、変な感じがしたの」
「へんなかんじ?」
「うん」
月菜は自分の手を見つめる。
「体の奥が、ぽかぽかして」
少し首を傾げる。
「なんか……ふわってする感じ」
「ふわ?」
「うまく言えないんだけどね」
月菜は空を見る。
俺は目を瞬いた。
「……もしかして」
「?」
「とべるように、なってたりして」
「え?」
月菜の目が丸くなる。
「わたしが?」
「うん!おねえちゃん、ためしてみようよ」
*
月菜は杖を両手で握った。
「えっと……」
目を閉じる。
「飛べますように……?」
小さく呟いた。
すると。
杖の先の宝石が、淡く光った。
月菜の周りに、光の粒が集まっていく。
でも――。
ふわっ。
「わっ」
少し浮いたと思った瞬間。
すとん。
芝生に戻った。
「……」
「……」
「今のは?」
月菜が真剣な顔で聞く。
「え、えっと、たぶん……」
魔法なんて使えないから、聞かれてもわからない。
適当に思ったことを言ってみる。
「たぶん?」
「れんしゅうが、ひつようなんだとおもう……」
「やっぱり!」
月菜は顔を輝かせた、と思ったら頬を膨らませた。
「魔法少女って大変なんだね……」
その姿がおかしくて、俺は笑ってしまった。
それから何度も挑戦した。
最初は数センチ。
次は一メートル。
そのたびに、
「あ、浮いた!」
「うぅ……落ちた……」
「もう一回!」
月菜は転んでも、笑って立ち上がった。
そして。
「……できた」
ついに。
月菜の体が、ゆっくり夜空へ浮かび上がった。
「ルナちゃん……」
月菜の声が震える。
「飛べた……」
「うん」
「わたし、飛んでる……!」
月菜は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、やっぱり俺まで嬉しくなる。
しばらくして、月菜は杖をゆっくり降ろしてきた。
「ルナちゃんも乗って!」
「……え?」
「いっしょに、とぼ?」
月菜が手を差し出す。
……え。
いっしょに?
おそらを?
「でも……」
「大丈夫!」
月菜は笑う。
「落ちないようにするから!」
「じゃ、じゃあ……のる」
断りたい。けど、ルナは幼女なのだ。好奇心の方が勝つらしく、口からはYESが出てしまう。
杖の後ろへ座る。
近い。当たり前だが、近い。
目の前に月菜の背中がある。
「ルナちゃん、落ちないようにつかまってね」
「う、うん」
……どこに?
少し迷って。俺は後ろから恐る恐る、月菜の腰のあたりに、両手を置いた。
「……っ」
顔が熱くなる。
女子生徒の腰に健全な男子生徒が手を置いているのだ。掴んでいないだけ褒めてほしい。
いや。これは仕方ない。落ちたら危ないから。そう。安全のため。安全のためだ。
「ルナちゃん?」
「な、なあに?」
「もっとぎゅってして大丈夫だよ」
「……!」
無理。恥ずかしい。
でも。ルナの思考は逆らえないらしい。
「……する」
小さな声で答えて。
俺はお腹の前まで手を回し、ぎゅっと力を込めた。
――もはや近い、というレベルじゃない。
ぴったりとくっつけた頬の下、月菜のジャージの背中は、思っていたよりずっと細くて、あたたかかった。腕を回した先、指先が触れているお腹のあたりが、呼吸に合わせてゆっくりと上下する。壊れそうなくらい細いのに、ちゃんと生きて、動いていて、あったかい。
背中越しに、心臓の音まで伝わってきそうだった。俺のか、月菜のか、たぶん両方の。とくとく、とくとく、と規則正しく響くリズムが、ジャージ越しにかすかに感じられる。
風でふわりと動いた黒髪の先が、俺の頬をくすぐった。ふわっと、あまい匂いがした。
――だめだ。俺、これ、絶対、いろんな意味でだめだ。
生まれて初めて、女の子を抱きしめている。
安全のため、ということにしないと、たぶん、この場でどうにかなってしまう。
「えへへ」
月菜が笑った。
「ちっちゃいね、ルナちゃんの手」
「……ちっちゃいもん」
「あったかい」
「おねえちゃんも、あったかい」
言いながら、俺は月菜の背中に、そっと額をくっつけた。もう、隠せなかった。俺のほうがきっと真っ赤になっている。見えない位置で、本当によかった。
「じゃあ、行くよ」
杖が光る。
二人を乗せたまま。ゆっくりと夜空へ上がっていった。
「……!」
足元から地面が離れていく。
風を切りながら、夜空へ。
目の前にいる月菜の背中。
その向こうに広がっていく夜の景色。
それを見て、ようやく実感した。
俺たちは、本当に空にいる。
「ルナちゃん……!」
月菜の声が弾む。
「見て!」
指差す先。
公園の街灯が、小さな光になって遠くにある。
木々の梢が足元より遥か下にある。
風が、頬を優しく撫でていった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
空を飛ぶなんて。
物語の中だけの出来事だと思っていた。
「ね!」
月菜が振り返る。
嬉しそうな顔。
「すごいよね!」
「うん」
月菜は笑っている。
まるで、自分が飛べたことよりも。
俺とこの景色を見られたことのほうが嬉しいみたいに。
「ルナちゃん」
「ん?」
「一緒に見られてよかった」
その言葉に、胸が少し詰まった。
……ずるいな。
いつもまっすぐな月菜。
「……うん」
ただ純粋にそう思った。
*
月が、二人を静かに照らしていた。
街の明かりが遠くで揺れている。
風は冷たいはずなのに。
なぜか、少しだけ暖かかった。
「……ずっと、飛んでたいね」
月菜がぽつりと言った。
俺は少しだけ考えて。
「うん」
答える。
「ずっと、おねえちゃんと、こうしてたいな」
月菜は振り返らなかった。
でも。
「えへへ」
小さな笑い声が聞こえた。
その声が、夜空の中でいつまでも、俺の耳に残っていた。
『ずっと、おねえちゃんと、こうしていたいな』
それは、俺の口から出たのか、ルナの口から出たのか。
今はまだ、わからなかった。




