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第五章 第四話

 ()()はまるで、つむじ風のようだった。

 目にも見えぬ程の速さで境内を駆け抜け、社殿を破壊し、周囲の木々をなぎ倒していく。

 人々は逃げまどい、遅れて捕らわれた一人の男が悲鳴を上げた。

 風が止まり、男を押し倒した()()の姿が明らかになる。


 春であったはずの()()は、美しい狐の姿をしていた。

 夜の闇の中、仄かに光る毛並みをなびかせ、怒りに燃える眼が男の動きを封じる。

 そして白い息を吐く真っ赤な口が、男を食い千切ぎろうと裂けた。


「……春!」


 真琴は息を飲んだ。


 他の人々にも春であった狐は見えているようだが、

神使として祀られている狐が荒れ狂う姿に、皆一様に言葉を失っていた。


「止めろ、春!」


 男を助けるため、夏野はそちらに駆け寄った。

 一瞬、夏野に視線を向ける狐。

 敵意に満ちた黒い眼がこちらを見据える。

 だが狐は夏野の手が届くよりも先に、男を突き放して空に飛んだ。

 その足元から、再び激しい風が巻き起こる。


「春!」


 先程と同じく、其処此処で悲鳴や破壊音がする。

 夏野は、呆然と空を見上げる真琴に近づいた。


「今の春は怒りで何も見えなくなっている。……あの状態では恐らく、俺たちのことも分からない。一旦どこかに隠れて、あいつが落ち着くのを待った方がいい」


 真琴は夏野を仰ぎ見て、首を振った。

 その頬を涙が伝う。


「待つんじゃ無く、私達が春を止めなきゃ駄目です」

「真琴」

「だって、助けてって言ってる。春が助けを呼んでるのが聞こえるんです。誰だって人を傷つけたりなんてしたくない。それは春だって同じだから。私……春にそんなこと、絶対にさせません」


 夏野は目を瞠った。


 失われた春の力はこの場で一気に回復した。

 だがあれ程弱った状態では、すぐにその大きな力を律することは難しかっただろう。

 その上さらに目覚めた瞬間に見えた光景は、彼の中に耐えがたい怒りを生んだはずだ。


 抑え切れぬ力と心が、春を無視して暴走している。

 本当に人を殺めてしまえば、暴走は止まるのかもしれないけれど。

 きっとそれでは、彼はもう戻れない。


 自分は真琴を信じると決めた。

 真琴に声が聞こえるというならば、春は確かにあの中にいる。

 決して我を失っている訳でも、手遅れでも無く。

 

 自分たちの助けを待っているー。


「分かった」


 夏野は空を見上げた。 

 闇を切り裂くように駆け抜ける狐の影が、その向こうの月に重なって見えた。


 ***


 どうして、と呟いたのは己の声。

 目に映る光景に吐き気がする。


 真白と暮らした社殿を壊して。

 真白が愛でた木々を倒して。

 真白が守ろうとした人々を傷つけて。


 だけど全て自分がやったことだ。


 どうして僕はこんなことをしているんだろう。

 これでは真琴を襲った奴らと一緒だと分かっているのに。

 こんなことをしたら二人と一緒にいられなくなると分かっているのに。


 でも、どうしても止められない。

 体が勝手に動いて、言うことを聞かないんだ。


 助けて、誰か。


 ……誰か?


 僕は誰に助けを求められる?

 主様には黙って社を捨てた。

 真白はもういない。

 真琴には力がない。

 夏野は―。


 ―夏野って……誰だ?-

 

 問いかけに答えるように、不意に過去が見えた。


 ***


 真白が巫女として社にやってきた日。


 親を失い真琴を閉じ込め、絶望していただろうに。

 それでも彼女は、その当日に巫女として神意を受ける儀式に挑んだ。

 この日ばかりは、いつも春に社の管理を任せて不在の主様も降りてきていた。


 主様と、その横に立つ神使。


 この村で主様―神の姿を捉えることが出来るのは、歴代の巫女だけ。

 例え神官であろうと、その目に神の姿は映らない。

 そしてその巫女たちの中にさえ、神使である春が見えた者は、かつて一人もいなかった。

 春は常にこの社にいるのに、誰にも見えない存在。

 だから今回も、新たな巫女について特別な思いは何も抱かなかった。

 

 本殿に入ってきた真白は、主様に深々と拝礼した。

 辛かったねと声をかけた主様に、いいえと笑う。

 そして顔を上げた真白は、次にまっすぐこちらを見た。

 春が驚くよりも早く、澄んだ声をかけられた。


「どうぞよろしくお願いいたします、神使様」

「……?!」


 始めてのことで、春は何も言葉を返せなかった。

 隣で主様がくすくすと笑う。


「良い友が出来たな、はる。彼を頼むよ、真白」


 先程とは逆に、はいと答えたその笑顔。

 それは春だけの世界に差し込んだ、柔らかな陽光のようだった。


 ***

 

 それからは毎日、真琴と一緒だった。

 本当の友のようになるのに、時間は少しもかからなかった。


「ねえ。はるってどういう字を書くの?」

「特にない。はるは、はるだ」


 しばらく考えて、真白は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、季節の春にしよう。優しいはるに似合うよ」

「……別に、どうだっていい」


 優しいのは僕じゃない、真白だ。

 でも、その言葉は照れ臭くて言えなかった。


 ***


 真白はよく真琴の話をした。

 真琴のことは、僕も主様ももちろん知っていた。


「きっと春は真琴と仲良くなれるよ」

「無理だよ、僕は真白にしか見えないんだ。それに僕には真白だけでいい」


 僕の言葉を聞いた真白は、とても悲しそうだった。


「私だけじゃ駄目。真琴には、春が見える力をあげるから大丈夫。春は優しい子だから……真琴だけじゃない、きっと皆と仲良くなれるよ」


 そんなの御免だった。

 真琴も他の誰かも、皆要らない。


 だから僕は、真白が消えてしまうまで一度も真琴に会ったことが無い。

 夜が来れば彼女と出会わぬ様に隠れ、ひたすらに朝を待ち望んだ。

 夜が無くなればいいと思った。


 ***


「私ね、もうすぐ消えてしまうんだ」


 それはどこか冗談めかした口調だったから、信じなかった。

 いや、違う。本当は真実だと知っていたから、信じたくなかった。

 僕には先を見通す目は無かったけれど。

 出会った時に感じたあの陽光が、徐々に色を失っていくのは見えたから。


「どんな方法でもいい。僕がどうなってもいい。彼女を救う方法は無いのでしょうか」


 そう尋ねた僕の頭をひと撫でして、主様は教えてくれた。


「人の命は永遠ではない。彼らとは必ず別れなければならないんだよ。違いはそれが遅いか早いかだけのこと。……そして我々にその理を変えることはできないんだ」


 でも僕は。

 僕は真白と離れたくなかった。


 だから、逃げようとした。

 真白を連れて、遠くへ。


 でも真白は、透けるような笑顔で首を振った。

 そんな必要は無い、と。


「だってここにいたら真白はどんどん力を使ってしまう。力を求められない場所に行こう。そうしたらきっと元気でいられるよ」

「ひどいなぁ。私、この力に感謝してるんだよ。この力のおかげで、春とこうして一緒にいられるし、真琴を守ることも出来た。……いつか真琴が出会う、夏野さんも見ることが出来たしね」


 少し照れたように笑う真白。


 僕は悔しくて反論する

 不思議なくらい、次から次へと言葉が出てくる。


 夏野なんて全然大した男じゃないよ。

 何を考えてるか分からない顔で、いつも笑ってるだけ。

 世話焼きで損ばかりしてるし、花の名前もよく知らない。

 弟の人生に責任を感じて、自分が幸せになっちゃいけないなんて思いこんでるし。

 真琴の気持ちにも、自分の気持ちにも、全然気づかないくらい鈍感なんだ。

 あれじゃ真琴が可哀想だよ。

 大体、夏野はねー。


 ……ねえ。聞いてる、真白?



 真白の返事を求めて顔を上げると、辺りは闇の中だった。


「……真白?」


 音も色も無い空間に恐怖を覚える。


「真白……僕を置いていかないで! 僕も連れて行ってよ。もう、一人は嫌だよ」

「春は一人じゃないでしょう?」


 耳元で真白の声が響く。


「ほら……真琴と夏野さんが待ってる」

「……!!」


 闇の先に、光があった。


 ***


 夏野と真琴は境内の中央で、敢えて大きく手を振った。


「こっちだ、春!」

「春!!」


 他の者達は木の陰や社殿の下など、あちこちに隠れていた。

 だから境内で動くものといえば、彼ら二人だけだった。


 激しく捻じれ上昇と下降を繰り返す、風のような狐。

 その目が彼らを捉えた。

 凄まじい勢いで二人に向かっていく。


 そして。


 飛び込んできた狐を、夏野は全身で受け止めた。

 しかしその勢いを受け止めきれず、狐を抱えたまま地面に倒れこむ。

 衝撃で、いくつもの玉砂利が弾け飛んだ。


「夏野さん!」


 夏野に覆い被さった形の狐。

 未だその体は強い風に覆われていたが、真琴はその背に飛びついた。

 振り落とされそうになるのを必死に堪えてしがみつく。

 下敷きになった夏野は、体中の痛みに顔を顰めつつ、目の前の狐を見た。

 その黒い眼の奥を覗き込むようにして、そして笑う。


「大丈夫だ。俺は生きてるし……春も生きてる」

「よかった」


 己に触れる二人の温もりを、春は確かに知っていた。

 彼を取り巻くその風が、次第にその勢いを弱めていく。


「一緒に帰ろう、春」

「そうだよ。……行こう、春」


 二人の言葉に、全身の力が抜けていく。

 狐―春は静かに目を閉じた。

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