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第五章 第二話

 駆け寄って春を抱え起こした夏野。

 真琴同様に、春のその体の冷たさに息を呑んだ。

 傍では取り乱した真琴が地に座り込んでいる。

 周りを行き交う者達も何事かと足を止めていた。


「春が……。夏野さん、どうしよう……私」

「真琴。大丈夫だから落ち着け。すぐに医者に連れて行くから」


 そう言って、夏野は誠一郎が懇意にしている医者を思い浮かべた。

 ここからだと、屋敷と正反対に位置する町屋だ。

 屋敷に戻るよりも直接連れて行った方が早い。


 そう思って春を背に負い踏みしめた足が、その場で止まった。

 

ー神の眷属だという春を、人と同様に診ることはできるのだろうかー


 見た目は人と変わらぬし、睡眠も食事も取る。

 そう考えれば、その体自体は人と大差ないようにも見えるが、だからといって全てが同じとは限らない。

 仮に診ることができたとして、もしも医者が春の正体を訝しみでもしたらどうするのか。


「夏野さん」


 真琴が泣きながら不安そうに見上げている。

 夏野は春を抱く腕に力を込めた。


 迷っている時間は無かった。


「真琴、一人で屋敷へ戻れるか」


 出来るならば一人にはしたくないが、今の状況ではいずれかを手放さなければならない。

 春は反対するだろうが自分は、そして真琴も、春を一番救う可能性のある方法を選ぶだけだ。


 言外に夏野の思いを汲み取り、真琴は強く頷いた。


「私は大丈夫です。心配いりません」

「恐らく屋敷には親父殿が戻っている。仔細を伝えてくれ」

「はい。春を……どうかお願いします!」

「必ず助ける」


 頷いて低く答えた。


 そして真琴を残し、人の輪の外に走り出した。


 ***


 夏野が戻ったのは既に辺りが暗くなり始めた頃。

 春を背負ったまま、出迎えた誠一郎に頭を下げる。


「どうだ」


 その短い問いは春の容態はもちろん、正体が知れたかどうか、医者への口利きが必要か否か、と言ったものを全て含んでいる。


「診てもらうことは出来ました。彼らが春の正体に疑いを抱くことも無かったので、親父殿に対応いただく必要もありません。ただ……」


 誠一郎が無言のまま片眉を上げた。

 夏野は首を後ろに回し、己の背で眠る春を見やった。


「どこが悪くて目覚めぬのか原因が不明だ、と」


 ―体の熱を下げて深い眠りにつくなど、言ってみれば獣の冬眠と同じ類だろう。……この後ちゃんと目覚めればよいがな―


「ほう」


 困惑していた医者の言葉を伝える。

 冬眠、という言葉に誠一郎が反応した。

 夏野は目を伏せる。


「医者は体質的なものかと見立てていましたが……それこそ春が人外のものである証でしょう。人の医学では春を治すことはできない」

「ならばどうする。……行くのか?」


 誠一郎には、恐らく春が回復するであろう方法について、既に話してある。

 はい、と答えて夏野は頷いた。

 冬眠とはうまい表現だと思った。

 やはり医者は頭がいいものなのだろう。


「このままだと、春は目覚めなくなるのかもしれません。……俺が、あいつを村まで連れて行きます」


 誠一郎は深い溜息をついた。

 夏野の返答は予想通りであった。

 親としては容易には認めがたいことだ。

 だが同時に、迷いなくあの二人を助ける道を選んだ息子を、誇らしくも思う。


「いつ出る?」

「用意が整い次第、すぐにでも。……真琴は置いていきますので、よろしくお願いします」

「それは任せておけ。こちらは心配いらないから、お前は必ず無事に戻れ」

「はい。真琴に、説明してきます」


 春の部屋では、丁寧に敷かれた布団の横で真琴が膝を抱えて座っていた。

 夏野が戸を開けると、弾かれたようにこちらを見上げる。

 その目が不安そうに揺れていた。


「寝てるよ。まずは布団に入れてやろう」


 春を布団に寝かせ、夏野は真琴の隣に腰を下ろした。

 そこで先程誠一郎に話したのと同じ説明をする。

 その間、真琴は無言で真琴を見つめていた。


 話し終えて改めて春の顔を見れば、決して苦しそうな表情ではない。

 むしろ目の前の真琴の方が真っ青な顔をしている上に、呼吸も荒い。


「真琴も横になった方がいい。春は俺が見てるから」

「春が……いなくなってしまったらどうしよう。どうしたら春は」


 譫言のように繰り返す真琴。

 夏野はその細い肩に手をかけ、正面から顔を覗き込んだ。


「しっかりしろ、真琴。今お前が焦っても状況は変わらない」

「夏野、さん……」


 涙で揺れる目が夏野の顔を捉えた。

 その瞬間、夏野の鼓動が一つ大きく音を立てた。


「私、春を助けたい。もう、失うのは嫌です。助ける方法は無いんでしょうか。……真白も、春もいなくなったら、私……」


 夏野は一つ大きく息をついた。

 真琴が知りたいことを自分は知っている。

 出来るならば隠しておきたかった真実。

 きっと、春は大いに怒るだろう。


「春の不調の原因はお社を離れたことによるものだ。だから、お社に戻りさえすれば恐らく回復する」

「……え?」


 真琴が息を呑む。

 その様子に、夏野はやはりと思った。

 やはりこのことは真琴も知らなかったのだ。

 当然だろう、知っていれば真琴は何より先に言い出したはずだ。


「どうして……今まで黙って……ううん、分かります。……私のため、ですね」


 俯く真琴。

 膝に乗せた手のひらを、強く握りしめた。

 と、その拳の上にぱたぱたと雫が落ちた。

 枯れることの無い涙だった。


「春も黙っていることを望んでいたし、俺もそれを認めてしまった。ここまで春が悪化することを想定しなかった俺のせいだ。……責任は果たす」

「夏野さん?」

「春を連れてお社に行くよ」


 はっとして顔を上げた真琴を、夏野は見つめた。


「真琴はここに残れ。連れて行くのは俺一人でいい」

「!! 何を言って」

「何があっても真琴を守る、それが俺と春との約束だ。……ここで俺が勝手に反故にしてしまえば、後で春にどれだけどやされるか分らんからな」


 笑って言う夏野にすがりつく真琴。


「嫌です、絶対に行かせません! お社の人が夏野さんに何をするか分からないから!」

「真琴」

「夏野さんにこれ以上迷惑なんてかけられないし……それに、そんな時間も無いはずです」

「ああ、だからすぐにでもここを立つ」

「いいえ! きっと何か方法があるはずです」


 夏野は驚いて目を瞠った。

 すぐ間近で自分を見ているはずの真琴の目が、一瞬自分を通り越し、遥か遠くを見据えている気がした。

 そしてその目が徐々に見開かれる。

 

「真琴、大丈夫か?」

「……真白の声が、聞こえる。夏野さんが方法を知ってるって。何よりも早くお社につく方法を」

「俺が? いや、そんなものは―」


 知らない、と。

 そう言いかけた時、脳裏に春の言葉が蘇った。

 あれは確か、照賢の元で春の正体が明かされた時に交わした会話だ。


 ―少し空間を曲げただけだよ。ずっと社に閉じ込められてまともに駆け回ったことも無いような真琴の足では、逃げ切れないのは明らかだったから―

 ―随分簡単に言うんだな。まるで俺にも出来そうな気軽さだ―

 ―人の感覚で考えるな―


「春が……」


 気づいた時には、夏野は言葉を発していた。

 見えない力で操られているかのように、意図せず己の口が動く。


「お社を逃げ出す時に、空間を曲げたと言っていた。だがそれは人ではないからできるのだ、とも」

「……ありがとう、夏野さん。十分です」


 真琴はふわりと笑うと、眠ったままの春に向き直った。そして春の細い手を、両手でそっと握る。


「真琴。何をするつもりだ?」

「真白と春の力を借ります。……私は、もう逃げたりしません」


 強く言い切った真琴。


 その言葉を境に、彼女を取り巻く空気が明らかに変わった。


「!!」


 見間違いかと思うように、すぐ目の前の光景が徐々に歪んでいく。

 真琴、と呼んだ自分の声さえ不可思議に広がってよく聞こえない。


 ―真琴は一人で行く気だ。そんなことはさせない―


 眩暈がするような感覚の中で、必死に真琴に手を伸ばした。

 だがすぐ傍にいるはずなのに手が届かない。


「夏野さん、これは私が解決しなきゃいけないことなんです。だから、あなたはここにいて」


 四方から波のように聞こえる真琴の声。


「駄目だ、真琴……真琴!」


 真琴の背に向かって思い切り伸ばした腕。

 それが真琴を捉えたのか確かめるよりも先に。

 夏野の意識は闇に飲み込まれた。

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