第五章 第一話
翌朝早く。
如月家には那央の声が響いていた。
「おはよう! 約束通り来たぞ。何だ、二人ともまだ寝てるのか? せっかくのいい天気だ、早く出かけなきゃ」
「那央」
「何だ、夏」
「……もう少し落ち着け」
いつも通り、誠一郎は既に家を出ている。
庭の掃除をしていた夏野は、箒を持つ手を止めて大きな溜息をついた。
だが那央は意に介していないようで、嬉しそうに続ける。
「今日は真琴を、虹の畑に連れて行ってやろうと思ってさ」
「ああ……そうだな。確かに真琴が喜びそうだ」
「だろ? 夏も来れそうか?」
少し考えて、夏野は首を横に振った。
脳裏に一瞬、昨夜の真琴の姿が浮かんで消えた。
「那央に任せる。長の所だとか、挨拶しておきたい先もいくつかあるしな」
長と聞いて那央の顔が目に見えて強張る。
「何だ。もしかして、今日は許可を得て出てきたんじゃなく、抜け出して来たのか?」
「ち、違うって。今日はちゃんとした休み。ただちょっと……昨日の地獄の一日を思い出した」
「そうか。それは悪かったな」
そんな話をしていると、声を聞きつけたのか真琴と春が出てきた。
「おはようございます、那央さん」
「おう! 元気そうだな、真琴」
そうだろうかと夏野は思った。
きっと寝不足なのだろう。真琴の目には薄っすらと浮かんだ隈が見えた。
原因はやはり自分なのだろうか。
そう考えたが、それをすぐに自ら打ち消す。
真琴は大切な仲間だ。勘違いするな、と。
そして笑って皆に告げた。
「出かけるのもいいが、とりあえずちゃんと朝飯は食べろ。那央はその間、掃除でもしててくれ」
***
那央が見せたかった景色は、城の建つ丘陵の奥にあった。
なだらかな起伏を幾つか越えた先に広がっていたのは、一面の花畑。
真琴が歓声を上げた。
渋々といった表情で着いてきた春も、多少感じ入った様子であった。
「すごいだろう? 今の時期、ここには色んな種類の花が咲くんだ。それがとてもきれいだから、虹の畑って言われてるんだよ」
「良い匂いもしますね! 近くに行ってみていいですか?」
「もちろん、気の済むまでどうぞ」
真琴は花を踏みつけないように注意して、虹の畑の中に分け入っていく。
那央と春は、それを並んで見ていた。
「春は行かないのか?」
「……ここから真琴を見てた方がいい」
「同感だな」
顔を見合わせて頷いた。
抜けるような青空の下、ゆっくりと時間が流れる。
いつしか春は草原に寝転んで寝息を立てていた。
こちらにやってきた真琴に身振りでそのことを伝え、二人で少し離れた所に座りなおす。
始めは顔を赤くして照れくさそうに黙っていた那央だが、穏やかなこの空間に次第に心が凪いだのか、少しずつ自分を取り戻して話し出した。
「喜んでもらえた?」
「はい、とっても!」
「それなら、よかった」
「小さい頃、真白とよく花畑で遊んでたんです。ここよりずっと小さかったけれど。家から少し離れた所であんまり人も来ないから、秘密の場所だねって」
「そっか。……いつか真白が見つかったら、一緒に来れたらいいな」
「……そう、ですね」
那央の言葉に一瞬戸惑うが、彼は自分と真白のことを知らないのだと思い出した。きっと近いうちに那央と柚葉には話すことになるだろう。
真白がもう、いないこと。
いや、本当にそうだろうか。
心が自分の中にあるなら、真白もこの景色を感じているんじゃないだろうか。
胸に手をあてて、真琴は自分の内にそっと呼びかけた。
―真白、見えてる? とてもきれいな花畑だね―
その時、まるで自分の呼びかけに応えるかのように、何故か夏野の顔が思い浮かんだ。
夏野が一緒だったら。そう本人に向かって言った己の言葉まで蘇り、大いに狼狽える。
「真琴? どうかしたのか?」
「え? あ、いえ、大丈夫です。……えっと、今日は柚葉さんはどうされてるんですか?」
何か別の話をと考え、真琴は咄嗟に柚葉の名を出した。
那央の表情が一瞬、僅かに変わった気がした。
「今日は子供たちに技を教えてる。あいつ、そういうのは得意だからな」
「分かる気がします。とても優しくて、明るくて」
「良く言い過ぎだよ。全然そこまでじゃない」
那央は苦笑して真琴の言葉を頭から否定する。
柚葉のために反論したくなった真琴は、柚葉が語った結婚相手の話を持ち出した。
「…………」
聞き終えた那央がなかなか喋らないので、真琴は段々不安になってきた。
夏野が好きだという点については伏せたけれども、他にも何か差し障りがあっただろうか。
考えていると漸く那央が口を開いた。
「それは……本当だよ。あいつは俺たち一族を背負って立たなきゃならない人間だから。相手の男は相応の忍びじゃないとな」
「那央さんは相応の忍びじゃないんですか? とても強いですよね」
何気なく口に出して、はっとした。
自分を思ってくれているという那央に対し、さすがにそれは無神経だろう。
怒られても仕方がない、そう思った。
だが、那央の反応は予想外だった。
驚いたように顔を上げ、微かに目を瞠って。
それからそんな自分を誤魔化すように大袈裟に笑った。
「何、言ってるんだよ。俺の技術じゃ全然無理だって!」
その瞬間、真琴の胸にある思いが生じた。
もしかして、と。
それは微かな予感だった。
柚葉の気持ちはすぐに理解できたのに、どうしても那央の気持ちが見えなかった理由。
自分を憎からず思ってくれているのは確かだとしても。
那央が心の底で本当に好きなのは、多分ー。
那央自身は自覚してすらいないのだと思う。
気づけばきっと、那央ならば黙っていられないだろうから。
―分からないよね、自分の本当の気持ちなんて―
何だか急に那央との距離が近づいた気がして嬉しくなる。
怪訝な様子でこちらを見つめる那央に、真琴は笑った。
***
柔らかい風に吹かれながら、それからも真琴と那央は他愛のない話をした。
やがて斜面の向こう側に夏野の姿が見えた。
用事が済んだら迎えに来ると言っていたから、それなりに時間が過ぎたのだろう。
夏野の姿を見た瞬間、真琴はどうしようもなく胸が騒ぎ震えるのを感じた。そして―。
―夏野さん―
風に乗って、真白の声が聞こえた気がした。
「真白……」
「え? 真琴、今何か言った?」
微かに呟いた言葉を聞き止めて、那央が尋ねる。
「あ、いいえ……」
耳に届いた真白の声はとても優しくて、そこには恐れも、後悔も、悲しみも一切無かった。
真琴の口元が徐々に綻んでいく。
今までは自分と真白の気持ち、どちらかを選ばなければならないと思い込んでいたけれど。
だからこそ不安になって、春を傷つけたりもしたけれど。
でも今、漸く分かった気がする。
どっちの心かなんて、きっと本当はどうでもいい。
―真白であっても真琴であっても、私の心なんだ。ずっと一緒、だよねー
夏野に起こされて漸く目覚めた春は、それでもまだ眠そうだった。
「大丈夫か? 背負っていくぞ」
「冗談言うな。それ位なら僕はこのままここから動かない」
「……まあ、これだけ元気に喋れるなら大丈夫だな」
「だろう?」
苦笑して、ふとずらした視線が真琴のそれと合わさった。
思わず身構えた夏野だが、予想に反して真琴が笑顔を見せたことに驚いた。
傍の那央が不思議そうに尋ねる。
「何だ? どうした、夏?」
「え? あ、いや」
真琴はもう一度笑うと、春と並んでゆっくりと歩きだした。
そんな真琴を、春が見て肩をすくめる。
「ご機嫌だね、真琴」
「うん、あのね……とても大事で、でもとても簡単なことに気づいたんだ」
春は目を瞠った。
だがゆっくりとその顔が和らいでいく。
そして折りよく那央に呼ばれて背を向けた真琴に。
「……それじゃ、僕の役目もそろそろ終わりかな」
その言葉はとても微かな独り言で、真琴には届かなかった。
***
忍びの住処の辺りで名残惜しそうな那央と別れ、夏野達は丘陵を抜けた。
しばらく歩いた所で、夏野は後ろを振り返った。
少しずつではあるが、春の歩みが遅れがちになっていた。
「本当に大丈夫か?」
「心配性だな。大丈夫だよ」
相変わらず青白い顔の春が笑う。
「やっぱりお前は親父殿が言う通り、食べたりないのかもしれないな。もっと食べて元気をつけないと」
「うるさいなぁ、ちゃんと前を向いて歩けよ」
「はいはい。じゃ、真琴。春の様子見を頼む」
「はい!」
真琴は春の手を取って歩いた。
始めはその手を外そうとした春だが、力が足りないのか途中で諦めたようだった。
「帰ったら少し休ませてもらった方がいいね」
「必要ない」
「春には元気でいてほしいの」
「今だって十分元気だよ」
「嘘ばっかり」
春は笑った。
いや、たぶん笑ったのだと思う。
倒れていく上半身でよく見えなかったけれど。
「……春?」
目の前の光景に、口から出た言葉は小さく掠れていて、まるでどこか遠くから聞こえてくるようだった。
返事は無かった。
微かに開いた口からは呼吸が聞こえたが、そっと触れた頬も指先も冷たい。
まるでそれは触れたこちらが痺れるかと思う程。
「……春!!」




