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第四章 第六話

春を促し再び歩き始めた夏野の前に、目指す寺が徐々に近づいてくる。

横に並ぶ春は先程から一言も言葉を発しない。

だが聞いているのは分かったし、その沈黙は今の夏野にはとても心地が良かった。


「親父殿はそのすべての条件を呑んだ。そして俺は隠密になり、弟は寺に入った。……あの時はそれが一番いいと思っていた。それが弟を守ることだと思っていたからな」


寺の門前まで来て、夏野はもう一度だけ立ち止まった。


「でも違った。結局俺は弟の人生を勝手に決めてしまっただけだ。父や母から託された願いも満足に果たせないまま、今日も死ねずに生き残っている。俺はそんな、どうしようもない人間だ」

「……夏野」


自分の名を呼んだ春に、夏野は少しだけ驚いて笑った。

だが敢えて呼びかけには答えず、門をくぐる。

そのまま慣れた様子でお堂につながる階段を上って、中を覗き込んだ。


拭き掃除に励む、懐かしい後姿。

最後に彼に会ってから、もう半年以上が経っていた。


―すごく心配してたから―


柚葉から聞いた言葉。我ながら虫が良いと思いつつ、やはり嬉しく思ってしまう。

そんな自分自身に心底呆れながら、声を発する。


「こんにちは、蒼穹さん」

「……? 夏野様!」


こちらを振り返った若い僧が、夏野の顔を見て表情を崩した。

そして足早にやってくると、その場に座して深々と頭を下る。


「夏野様、お久しゅうございます。お勤めが長引いておられるとのことでしたが、なかなかお見えにならないので心配しておりましたよ」

「そうなんです。まあ、色々とありまして」

「今日はお時間は大丈夫なのですか?」

「ええ、もちろん。蒼穹さんにたくさん土産話ができそうです」


夏野は、実にのんびりとした口調でそう述べた。

それを聞いた蒼穹は嬉しそうに笑った後、夏野の後ろに立つ春に気づいた。


「初めまして、ですね。私は蒼穹と申します。夏野様のお仲間でおられますか?」

「僕は……」

「そうなんです、まだ子供だが筋が良くて。ただ、まずは任務より世間を知ることからだと上からも随分煩く言われておりまして……。すみませんが本日はこの、春と申す者も同席させていただいてよろしいですか?」

「もちろんです。さあ、お二方ともどうぞこちらへ」



夏野は任務で回った他国の様子をあれこれと話して聞かせた。

もちろん機密情報を話す訳には行かない。

国ごとに異なる市の様子や子供たちの遊び、通り過ぎた港の景色など、いずれも当たり障りの無い話ではあるが、蒼穹は子供のように目を輝かせて聞き入っていた。


どれだけ時間が経ったのか。

手につけることすら忘れた茶がすっかり冷めた頃。

夏野は我に返ったように目を瞬かせた。


「すっかり長居をしてしまいました。お邪魔ではありませんでしたか」

「とんでもない! とても面白いお話でした。私だけでなく、子供たちもさぞ喜ぶことでしょう」


蒼穹さんはこの寺で子供たちを集めて勉強を教えているんだ、と。

二人の会話に小さく首を傾げた春に気づき、夏野はそう説明した。


「教え方が上手いから子供たちに随分慕われていてな。俺はこの通り、お前にもなかなか懐かれない程だから、蒼穹さんが羨ましい」

「僕を引き合いに出す…さないでください。そう言うところが蒼穹様に及ばないところですよ、きっと」


一応は夏野の顔を立てたのか、言葉遣いを改めた春が顔を顰める。


蒼穹は笑って大きく首を横に振った。


「私などとても。……むしろ私は夏野様に憧れているのです」

「……?!」


夏野は明らかに狼狽したが、蒼穹は気づかぬようで少し目を伏せ口を開いた。


「夏野様はこの国のため民のために、日々命を賭して働いておられる。対して私はいつも守られる側です。子供は好きですし、住職様もお優しい。……不満はないはずなのに、己が役に立てている自信が得られずにおります。私の存在など小さすぎて、居てもいなくてもこの国のためにならないのではないかと」

「……何を」

「私も立場が違い、夏野様のように身を挺して皆を守ることが出来ればと思うこともあります」

「蒼……」

「それで命を失うならば、これ程幸せな事はないのかもしれませぬ」

「そんなこと言うな!」


夏野の強い口調に、蒼穹が驚いたように口を噤んだ。

その表情に、夏野も我に返る。


「夏野様? すみません、出過ぎた発言を」

「あ……あ、いや。俺の方こそすみません。……その、蒼穹さんが手を汚す必要は無いんです。それは俺だけで充分だから。俺は蒼穹さんにはずっときれいなままで、幸せに生きていてほしい」

「…………」

「夏野さん、それじゃまるで口説き文句のようですよ。……ちょっと落ち着いて」

「!!」


見かねた春が間に入った。

夏野は幾分色を失った顔で呆然としていたが。


「すまない、調子に乗りすぎました……少しお堂で頭を冷やしてきます」


そう言うと、逃げ出すように部屋を出て行った。


「困ったもんだな。すみません、蒼穹さん」


夏野を庇う様に笑う春に、蒼穹も笑顔を見せた。


「春様は夏野様と仲がいいんですね」

「は? いや、それは無いです。というか僕はただの春で結構です。下っ端ですから」

「そうですか、では春さん。夏野様は随分あなたに心を許しておられる。だから私はあなたのことも羨ましいのですよ」

「そんなことは……」

「私も人間ですから欲は捨てきれません。己の持たない物に憧れ、羨み続けるけることでしょう。それでも私は、ここで生きていくことを選んだのです……必死の思いでこの場所を与えてくれた兄のためにも、自分自身のためにも」

「!! ……知っていたんですか? どうして言わないんです?」

「私が知ったと分かれば、兄は更に自分を責めるでしょう。それだけは絶対にさせません。……皆が私を守り育んでくれたのと同じだけ、兄も皆に守られ育まれてきたのですよ。あの人はなかなかそれに気づけずにいるようですけれどね」


蒼穹はそこまで言うと、可笑しそうに笑った。


「これまで兄が、那央さんや柚葉さん以外の方とここを訪れたことはありません。でも今回は春さんという新たな仲間を連れてきた。しかも随分楽しそうではありませんか。……兄がどんどん遠ざかって行くようで少し寂しくなり、先程はつい意地悪をしてしまいました」

「夏野、さんを怒らせたのはわざとですか」

「そうですね。私は、怒ったり泣いたり悲しんだりする……血の通った兄に会いたいと、そう思っていますから」


足音が近づいてきた。

蒼穹は、最後に笑ってこう言った。


「兄をよろしく頼みますね、春さん」



 ***


結局その後も夏野は自分が許せなかったのだろう。

当たり障りの無い会話を少しして、慌ただしく辞去することとなった。


「では蒼穹さん、また」

「……はい。夏野様も春さんも、ご武運をお祈りしております」


礼をして歩き出した二人の背後から再度声がかかる。


「夏野様!」

「……?」


振り返った夏野に、蒼穹が笑顔で大きく手を振った。


「先程の言葉は嘘です。私はこれからもここで、自分に出来ることをして生きて行く……それが私の一番の幸せですから。悔しかったら夏野様も、私に負けぬくらい幸せになってください」


面食らった夏野が困っている。

その横で春は小さく笑った。


しばらく歩いて、やはり納得ができない様子で夏野が口を開いた。


「さっきの蒼穹、何かおかしくなかったか?」

「あんたも人のこと言えないだろ。僕はあんたたちが似たもの兄弟だなと思ったけど」

「……そうか?」


さらに困惑する夏野に春がもう一度笑う。

そして立ち止まって、まっすぐに夏野を見上げた。

彼ら兄弟を守るために、皆が仕組んだ優しい嘘。

ならば自分も真実は話さない。でも―。


「夏野。あんたの思いはきっと蒼穹に伝わってるよ。あの人からはそんな感じがした。だってあんたの弟だもんな。……だから自信持てよ」


目を瞠って、そして夏野はいつもの笑顔を見せた。


「……ああ。そうだな」


 ***


その夜。夏野は再び誠一郎の部屋を訪ねた。

目の前の父親は、相変わらず厳しい顔をして、優しい目をしてこちらを見ている。


「昨日のお話について、一つ謝らなければならないと思いまして」

「どうした」

「親父殿からは真琴と春にかかわることならずと命じられましたが」


そこまで言って、夏野は膝の前に手をついて土下座をした。


「例えあなたのご命令でも、それは出来ません。俺はあの二人を助ける。誰かの身代わりではなく、真琴と春を助けたいんです。あの二人は俺の大事な仲間ですから……失うのは、嫌です」


そうか、と呟いた誠一郎の顔が次第に笑顔に変わっていく。


「ならば許す。お前の仲間を全力で助けよ」

「はい」



誠一郎の部屋を出て自室に向かうと、その手前の廊下で真琴が所在なさげに立っていた。


「どうした、真琴」


今日は楽しかったのだと、先程まで興奮して夏野と春に話していたのに。

今は随分恥ずかしそうに俯いている。


「あの、夏野さん」


柚葉の言葉を胸に、真琴は震える両手を強く握りしめた。


「私、今日はとても楽しかったです。柚葉さんも本当に良い方でした」

「うん、それは俺もよく知ってるよ。楽しんでくれてよかった」

「でも……でも、きっと」

「?」

「夏野さんがいたらもっと楽しかっただろうって思うんです」


突然自分の名が出てきたことに、夏野が驚く。

だが真琴は至って真面目のようだ。


「それが自分の気持ちか真白の気持ちか、今でもよく分からないですけれど……でも、絶対に嘘じゃないから。だから、もう少し傍にいさせてください」

「真琴」

「……い、以上です。おやすみなさい!」


きっとひどく赤いだろう顔を隠すように素早く頭を下げると、真琴は自分の部屋に飛び込んだ。

後に一人残された夏野は、長くそこに立ち尽くしていた。

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