第四章 第五話
今から十五年も前。
父と母と、まだ自由に歩くこともままならない幼い弟、そして夏野。
家族が暮らしていたのは、当時の久我氏の領の際。
少し歩けば隣国に迷い込んでしまうような、そんな辺境の小さな集落だった。
生活は慎ましく、だが生きられぬ程苦しくもない。
何より優しい父母と共にあり、夏野には不満など一つもなかった。
そんなある日、遠矢からの伝令役が集落にやってきた。動ける男達を隣国との戦に招集するためだ。
夏野の記憶に残る父は穏やかで真面目。
他人と争うような人間ではなかったし、もちろん主君の命を無視できるような人間でもなかった。
刻限までひどく困った顔をして何度も嘆息して。
そして夏野を呼び寄せて、母と弟を頼むと言った。
―俺は死にたくないし、殺したくもない。どちらも怖いし、そんなことをせずにお前たちといたい。臆病だと言われてもいいから、きっと逃げ延びて帰ってくる。……だからそれまでは、お前がこの家を守れ―
出来るかと尋ねられて、夏野は力強く頷いた。
父から頼られたのがただただ嬉しくて、父の苦しさに思いが及ぶことなど、無かった。
数日後、戦は久我の勝利で終わった。
僅かな褒美を手にした男たちが次々と帰ってきたが、その中に父の姿は無かった。
寄せ集めの歩兵達は数だけは多く、戦場は混沌としていたらしい。
誰に聞いても、父の最期は分からなかった。
ただ、深手を負った同士を助け起こしている姿を見たと話す者はいた。
母はやつれた顔で、あの人らしいねと呟いた。
それでもまだ夏野には、母と弟を守るという使命が残されていたから。
だから泣かずに、ひたすらに動いた。
夜も昼も分からなくなるくらい、畑に出て、弟の世話をして、母を手伝った。
そして夜も昼も分からなくなったから。
あの日が戦からどのくらい経っていたのか、夏野はよく覚えていない。
あの日―。
夏野の暮らす集落は、突如隣国に攻め込まれた。
あんな小さな集落を奪ったとて何の価値もない。
戦略ですらない。集落は、単に意趣返しの標的にされたのだ。
近づく足音に最初に気づいたのは夏野だった。
夏野の言葉を聞いた母は、積んであった薪の奥に夏野と弟を押し込んだ。
弟は夏野の腕の中でぐっすりと眠っていた。
―絶対に出てくるんじゃないよ。その子は頼んだからね―
そして夏野は、薪の隙間から母が殺される場を目撃した。
敵の手にかかることを避けようとしたのだろう。
戸を蹴破って入ってきた兵士に鎌で立ち向かい、斬り捨てられた。
その場から動くこともできず、弟を抱きしめ。
叫びだしたい衝動を、奥歯を噛みしめてひたすら耐えた。
弟が目を覚まして泣き出せば、見つかって自分も弟も殺される。
自分が死ねば弟を守れない。
弟が死ねば自分は生きる意味がない。
父と母に託された使命が、果たせない。
だから死ねない。死にたくない。どうか目を覚ますな―。
真っ赤に染まる視界の中で、ただ繰り返し同じことを考えていた。
どれ程時間が経ったのか。
夏野はその場で気を失っていたようだった。
辺りは既に夕暮れ色の静寂に包まれていた。
ふと気づいた空っぽの腕に愕然とし、震えながら薪の裏から這い出した。
そして母に縋る弟を見つけた。
もちろん死を理解出来ているわけではない。
起きない母が不思議なのだろう。
夕陽に染まる血の海の中、たどたどしく母を呼び、その体を揺する弟。
夏野はそのまま這って二人に近づき、無言で母と弟を抱きしめた。
外から声が聞こえたのは、その時だった。
「……!!」
敵かと戦慄が走るが、それにしては人数が少なく落ち着いた声音だった。
弟の頭を撫で、包丁を手にすると、夏野は静かに戸を開けた。
声がするのは裏口の方だ。
壁伝いに回り込んで、様子を窺った。
そこにいたのは五人の侍だった。
一人が特に豪奢な着物を着て馬に乗り、他の四人は馬から降りて周囲に目を配っている。
四人のうちの一人が、低い声で口を開いた。
「生き残った者はいないようです。残酷な真似を……。もう少し早く情報を掴むべきでした」
その声は哀しみを湛えていて、麻痺しかけていた夏野の心に染み入った。
ああ、この人は敵ではない。ならばあの馬上の人は殿様なんだろうか。
そう思って助けを乞おうとした。
だが次に聞こえた声に、踏み出しかけた足が止まる。
「早く知れたから何だと言う? この連中を救いに来たとでも言うのか? そんなことはどうでもいい。問題は、彼奴らが儂を虚仮にしたということだ。許すわけにはいかん」
自分の耳を疑った。
―どうでもいい? 生き残った者がいないと言っているのに?-
動悸が激しくなり、息が上手くできなかった。
目に映る景色が赤さを増し、全身が震えた。
父はお前のために戦に出て死んだ。
母はお前のために襲撃されて死んだ。
それでもお前は、どうでもいいと言うのか―。
「もういい、状況は分かった。儂は戻り、反撃の策を練る。誠一郎、お前は事後処理をしてから戻れ」
「承知いたしました」
誠一郎と呼ばれた先程口を開いた男を残し、他の四人がこちらに背を向けて立ち去ろうとする。
―行かせるか。……殺してやるんだ―
咄嗟に夏野は飛び出した。
手にした包丁を突き出して、先頭に立つあの憎き男の元へ駆け寄る。
足の速さには自信があった。
奴らが気づいて振り返るよりも前に、男に切りつけることが出来るはずだった。
あと少し。誠一郎とやらの横を駆け抜ければ、敵はすぐその前にいる。
「……?!」
だが、誠一郎の横を抜けることは出来なかった。
強い衝撃に一瞬、何が起きたか分からなかった。
気づけば夏野の目の前に、誠一郎の広い背中があった。
その場に膝をつき、そしてその背には自分が持っていたはずの包丁が刺さっている。
状況が理解できない夏野の前で、誠一郎は平然と立ち上がった。
と、少し先で馬上の男達が振り返った。
「今何か音がしたか?」
立ち上がった誠一郎に隠れ、夏野の姿は彼らから見えていないようだった。
誠一郎は首を振ると静かに答えた。
「いいえ、私には何も」
そのまま彼らを見送ってから、漸く誠一郎は夏野に声をかけた。
「生き残ったのはお前ひとりか?」
「…………」
夏野は人を刺したことに激しく動揺していた。
誠一郎は振り返り、再び身を屈めると、夏野と目線を合わせた。
「答えろ。私ならば大丈夫だ。……多少の傷にはなるが、お前の気が晴れるならばそれでいい。その代わり、お前の恨みは今この場で捨てよ」
「あ……お、弟が……中に」
「そうか」
そう呟くと、誠一郎は夏野の頭に手を伸ばした。
「弟を守り、よく生き延びた。……頑張ったな」
***
その後のことは、誠一郎が全て取り計らってくれた。
夏野と弟は誠一郎の元に身を寄せた。
誠一郎の傷は頑丈な胴巻きにより軽減されていたが、それでも傷は残った。
その背を見る度に謝る夏野に、誠一郎は気にするなと笑った。
父と母を、そして集落の仲間を失った痛みが癒えることはなかったけれども、誠一郎の家での暮らしは、夏野の心を少しずつ解きほぐしていった。
幼い弟は、母の記憶そのものがまだ不確かなものだったのか、誠一郎にも下働きの者達にも直ぐに懐いた。
このまま誠一郎の元にいてもいいのかもしれない。
そんな考えすら持ち始めた時、誠一郎に呼ばれた。
「隠密として、この国の力となってくれないか」
出会った時の、皆に気づかれずに無意識に気配を消した夏野の能力。
それは常人よりも優れているのだと誠一郎は言う。
「嫌です。俺は誠一郎様のためなら働いてもいい。けど、国のためってことはあの殿様のためってことだ。絶対に嫌です!」
「……そう言ってくれるのは嬉しいが、私自身がそもそも殿のために働いている訳だ。こうしてお前達を養っていけるのも、殿の力があってこそ。結局はすべて同じことだろう」
それでも嫌だ、と反抗した。
あいつは俺の仇だ。許すことは出来ない。それ位ならこの国を出る、と。
誠一郎は困って、そして表情をひと際厳しくした。
しばらく生活を共にする中で、夏野は彼がそんな顔をする時を知っていた。
言いたくないことを言わねばならない時の顔だ。
「お前一人ならばそれもよかろう。……だが、お前にはまだ守らねばならぬものがあるのではないか?」
「……脅し、ですか?」
「そう取ってもらっても構わん。俺はお前が思うほど善人ではない」
嘘をつけと思った。
ならば何故そんなに苦しそうな顔をするのか。
どうしてその言葉に、こちらが怒りではなく泣きたくなるのか。
一晩寝ずに考えて、次の日に夏野は告げた。
「隠密になります。条件を呑んでもらえるのならば」
「……言ってみろ」
弟には自分と同じような道を歩ませず、決してその手を汚させないこと。
自分と弟との血の繋がりを全て消し去り、他人として生きられるようにすること。
そしてー弟の幸せを守ること。
誠一郎が何を思ったのかは分からない。
微かに笑って、頷いた。




