第四章 第四話
屋敷を出たところで、真琴は頭上に気配を感じた。
顔を上げる前に予想した通り、そこには疾風の姿がある。
柚葉と二人で疾風を呼び寄せ、その足に結ばれた文を外した。
「よく父さんの目を盗めたもんね、感心するわ」
くすくすと笑う柚葉の横で文に目を通す真琴。
平仮名ならば読めると、那央に話したことがある。
それを覚えていたのか、文は短い平仮名で書かれていた。
照れたような真琴の顔を見れば、何が書いてあるかは大体想像がつく。
疾風を空に返すと、柚葉は真琴に向き直った。
「かわいそうだけど、那央はしばらく放っておくしかないから。こっちはこっちで楽しみましょう。今日は市も出てるから、行こう!」
目新しい町中を柚葉と共に歩くのはなかなか楽しかった。
歳を聞けば真琴より二つ程上だという。
見知らぬ場所ではどうしても好奇心が勝る真琴にも、嫌な顔をせず付き合ってくれる。
気取らないその立ち居振る舞いは、きっと姉がいたらこんな風であろうと想像させるものであった。
そんな柚葉に誘われ、折よく市に店を出していた茶屋に落ち着いた。
時間が経つのを忘れる程興奮していた真琴だが、それで漸く、歩き疲れた己の足と乾いた喉に気づいた。
「本当は山の方にも連れて行ってあげたいんだけど。那央の顔も立ててやらないとね」
「那央さんが?」
「うん。自分で連れて行きたいんだって」
そういえばこの町に向かう途中那央が言っていた。
綺麗な景色を見せに連れて行ってくれると。
「那央、楽しみにしてたから。今日はとりあえずこっちで我慢してね」
「我慢だなんて。とても楽しいです」
「そう? ……よかったぁ」
真琴の顔を覗き込んだ柚葉が、安心したように胸を撫でおろした。
「ちょっとだけ、心配してたんだ。真琴のこれまでのこと、全部じゃないんだろうけど聞いてたからね」
普通と異なる真琴の人生。
もちろん可哀想だと思わない訳ではないけれど、それを軽々し言葉や表情に出すのは違う気がしていた。
真琴は強くはないけれど強くあろうとしてるんだ、と照れながら言っていた那央。
それに―。
「夏野が連れてきた子なんだから、大丈夫だとは思ったんだけどね。打ち解けてくれるかな、とか、昨日は馴れ馴れしすぎたかな、とか色々考えちゃって」
「そんなこと全然ないです。本当にすごく嬉しいんです」
同じ言葉ばかり繰り返すだけの自分がもどかしい。
どう言えば伝わるのだろう。
考えて、迷った末にもう一度柚葉を見つめた瞬間、
真琴の口から不意に言葉がするりと出てきた。
「私、柚葉さんみたいになりたいです」
「え、そうなの? どうして?」
柚葉が驚いて目を丸くしている。
自分でも一瞬驚いたが、口にしてみると不思議とすんなり胸に落ちた。
「そう……私、昨日初めて柚葉さんに会った時からずっと、柚葉さんに憧れてたんです。自分の気持ちにとても素直で、嘘やごまかしなんて全然無いところ。羨ましいと思いました。私は……それがどうしてもできないから」
手にした茶碗を置いて、柚葉は照れたように笑った。
「確かに嘘はついてないけど。でもそれって不器用だったり馬鹿だったりするからじゃない? それにそもそも昨日の私なんて、那央をからかって春の頬をつねりあげただけでしょう? 真琴にそんな風に思ってもらえるようなことなんて」
「夏野さんのこと、好きですよね」
「……え?」
「夏野さんからありがとうって言われた時、柚葉さんは心から嬉しそうでした」
ああ、と柚葉は合点がいったようだった。
そして昨日と同じ笑顔を見せる。
「それはそうね。確かに夏野のこと、すごく大事。守りたいし、傍にいたい。この気持ちを隠すつもりは、無いかな。……だって隠してたら、気づいてもらえないまま、いつか突然会えなくなっちゃうかもしれないでしょう?」
その言葉の真意が分からず、真琴は首を傾げた。
柚葉は空を見上げて少しだけ考え込んだ。
「夏野も私も、お互いいつ任務の途中で死ぬかも分からない。行ってくるねって言ったのが最後で、もう二度と戻ってこないかもしれないから。そう考えたら、自分の思いは全部伝えておきたい。……まあ、どれだけ伝えても叶いはしないんだけどね」
「そんなこと分からないじゃないですか」
「一応私も忍びの長の娘だからね。……相手は一族の男じゃないと駄目なの。それは、自分でも理解してるから」
それはおかしい、と声を上げようとして。
だが真琴は気づいてしまった。
自分は世の道理をまだよく分かっていないけれど。
気持ちだけではどうにもならない立場があること、真白が己を犠牲にして生きてきたことを、十分知っているから。
「でも……でも、やっぱりそんなのは辛いです。柚葉さんの気持ちが可哀想です」
「そうなのかな……自分ではそう思わないけど。だって夏野を好きだと思う気持ちも、一族を守りたいと思う気持ちも、どちらも同じ自分の気持ちなんだもの。今の私はその両方の気持ちでできていて、それをすごく誇りに思ってる。だから嘘はつかないんじゃなくて、つけないって感じかもしれないね」
「柚葉さん……」
穏やかな風を受け、柚葉は目を細めた。
その迷いの無い表情に、真琴は心が震えるのを感じた。
真白もそうやって思っていたんだろうか。
真白にずっと守られてきて、だから今度は自分が守ろうと必死になっていたけれど、真白はそんなことを望んでいなかったのだろうか。
ふと気づいたように柚葉が小さく声を上げた。
そして慌てたように真琴に視線を向ける。
「ちなみに那央は大丈夫だからね。あいつは長の子じゃないし、それに男だから。もともと女の忍びってそれほど多くないし、奥さんが忍びじゃない忍びって案外多いの。だからその点は心配いらないからね」
言外に那央との仲を勧められているのが分かり、真琴は顔を赤らめた。
「ち、違いますから」
「本当に?」
「……本当に」
わざと覗き込むように顔を近づけてから、柚葉は表情を和らげて身を引いた。
「やっぱりそうだよね。那央には可哀想そうだけど、仕方ないわ。……でも、じゃあ他に大事な人がいるってこと? やっぱり春?」
夏野への思いについては気づかれていないようだった。
自分でもよく分からずにいるのだから、当然なのかもしれない。
「あの……えっと」
言葉に詰まる真琴の様子に勘違いをしたのか、柚葉は頷いて真琴の手を握った。
「ひとつだけ、私からの忠告。絶対に後悔はしないようにね。これまではずっと傍にいられたかもしれない。……でも、誰だってそれは当り前じゃない。失ったら二度と手に入らないんだから、しっかりこの手でつかまえて、心から叫ぶの。大好きだよって、ね」
柚葉の手は温かかった。
彼女の心を移したようなその温もりを感じながら、真琴は大きく頷いた。
***
その頃、夏野は春を伴い町の外れに向かって歩いていた。
目指すのは、この町の中で城から最も遠い場所。
まだ先があるが、既に家もまばらで同じ町とは思えぬ程静かである。
先ほどから黙って後についてくる春を振り返った。
「本当に体は大丈夫なのか?」
「僕に気を使う必要はない。本当はもっと他にも行こうとしていた場所があったんだろう。あんたは本当に鼻につく奴だな」
「……最近ではその悪口を聞かないと、逆に落ち着かなくなってきたな」
苦笑して、夏野が言う。
「でも別に春に気を使った訳じゃない。……自分に喝を入れただけなんだ。このままだと、これまでと同じように後回しにしてしまいそうだったからな。……それに、むしろ気を使ったのはお前の方だろう。自分がいては真琴達の散策もままならぬだろうと考えた。違うか?」
「…………」
「偉いな、春は」
仏頂面で黙り込む春の頭を撫でてやると、強くその手を叩かれた。
だがやはりその動きも、いつもよりは鈍っているように見える。
そして睨みつけてくるその視線を受け止めて、夏野は前を向いた。
視界の遠く先に小さく見えてきた一軒の寺。
久我家の菩提寺であり、ここからではまだ分かりにくいが、照賢の寺よりも格段に立派なものだ。
今時分なら、恐らく彼は堂内の掃除でもやっているだろう。
「春。……お前が俺を少しでも信じてくれたのだから、そろそろ俺も本性を見せなければな」
「何のことだ?」
「俺の、罪の話だよ。これから向かう先には……俺が背負い続けなければならない罪があるんだ」
その前に春にはきちんと話しておかねばならない。
夏野は道沿いの大きな石に近づき、腰を下ろした。
あの寺に向かう前、夏野はいつもここで立ち止まる。
ここは彼に会う前に、己の気持ちに整理をつける場所だった。
春は少しだけ眉を上げたものの、結局黙って夏野の横に並んで腰を下ろした。
「すまないが、少し長くなる。具合が悪ければこのまま戻っても」
「今更何だよ。随分弱気なんだな。そんなのあんたに似合わないよ。……僕は適当に休んでるだけだから、いないものと思って気楽に話してなよ」
そう言うと春は石にもたれたまま目を閉じた。
その口元には、僅かに笑みが浮かんでいる。
そうしてみれば、本当に普通の子供のようにあどけない。
「そうか。……ありがとうな」
夏野は春から視線を落とし、自分の足元を見つめた。
―すごく心配してたから―
昨日、柚葉に言われた言葉。
最後に彼に会いに来てからもう半年以上が経つ。
それでも彼は、今も変わらず自分を心配してくれているという。
我ながら虫のいいことだと思いつつ、やはり心の底では嬉しく思ってしまう。
そんな資格など、とうに失っているというのに。
「あそこには、俺の弟がいるんだ」




