第四章 第二話
ひとしきり誠一郎の話も終わったところで、漸く彼らは用意された部屋に落ち着いた。
と言っても夏野はもともとここが居宅なのだし、那央は城近くに忍び一族の住処があるという。
従って、新たに部屋を用意されたのは真琴と春のみだ。
恐らく誠一郎が気を遣ってくれたのであろう。
夏野の部屋のすぐ傍に並んだ二間は、中央の襖を開けばいつでも行き来が出来るようになっていた。
「大丈夫なんですか? それぞれお部屋まで使わせていただいて」
「こういう時のための部屋だ。ちょうど今は誰も使ってなかったし、気にしなくていい」
笑って応えた夏野は、次の瞬間ふと視線を廊下の先に向けた。
つられて真琴も仰ぎ見るが、特に何も見えない。
取り立てて誰かがやってくる音もしない。
そう思った直後に、廊下の角から一人の女性が姿を見せた。
「お帰り、夏野!」
明るい声で呼びかけて、人懐こい笑顔を見せる。
夏野よりは那央や真琴に近い年齢と見え、一つに束ねた長い髪に袴姿がよく似合う、凛々しい女性であった。
「柚葉。元気そうだな」
「そう見える? 夏野、全然戻ってこないから寂しくて寂しくて。誠一郎様といつも夏野の話して、二人で泣いてたのに」
「……想像したくないな」
柚葉と呼ばれた女性は含み笑いをすると、次に真琴と春を見た。
「真琴と春ね? 那央から聞いてたわ。困ったことがあったら私にも言ってね。夏野ほどじゃないけど、那央よりは力になれると思うから」
「は、はい。ありがとうございます!」
「ちょっと待て! 今回、夏のこと助けたのは俺だぞ」
「たまたま上手くいっただけでしょう? 私だって行きたかったのに抜け駆けして!」
「ほら、二人とも。春の目を見てみろ。完全に呆れられてるぞ」
春は黙って座っていたが、その顔は確かに、また煩さそうなのが出てきたなと言わんばかりの表情だった。
真琴が慌てて春、と小声でたしなめたがそっぽを向いてしまう。
だがそれを見た柚葉は、今後は声を上げて笑った。
春が眉を寄せて柚葉を見返す。
「何だよ?」
「ううん。那央の言ってた通りだなって。真琴のことはとにかく可愛い可愛いって煩かったし、春は気難しくて頭が良さそうで……でもきっと笑うと可愛いんだ、って」
「…………」
春はより一層眉を寄せて那央を、次に夏野を睨む。
驚いたのは夏野だ。
「いや、今の話に俺は関係ないだろう」
「もとはと言えばあんたのせいだろうが!」
「そうか? そんなことは……いや、そう言われるとそうかもしれんな。その通りだと思ったし」
春は大きくため息をついた。
「はいはい。とりあえず今日は皆ゆっくり休むこと。真琴も春も疲れてるんだし、夏野は怪我人なんだからね」
「そうだな、そうしよう」
柚葉の言葉に、横に立つ那央も大きく頷く。
「あんたは疲れても怪我してもいないんだから早く帰んなさいよ」
「は? いや、だから俺だって大活躍して疲れてるから」
「甘えるんじゃないの。戻ったらやること沢山あるでしょ。こないだの報告書だって、作りかけで夏野の所に飛んでったんだし。罰として、これからしばらくの食事当番はあんたに決まってますから」
「何でだよ!」
「あ、それに父さんが呼んでるんだった。旅の間もちゃんと鍛えてたか見たいから、すぐ戻れって」
「!!」
那央の顔が一瞬で変わった。
そこに浮かぶのは紛れもなく恐怖だ。
「それを始めに言え! まずいわ……俺、行かなくちゃ」
呆気にとられる真琴を前に数歩進んで、慌てて立ち止まり振り返る。
「あ、あの真琴」
「はい?」
「俺、また明日顔出すから……とにかく、それまで元気でな」
「はい、また明日!」
真琴の笑顔を刻みつけるかのように強く頷くと、那央は急ぎ足で廊下を曲がっていった。
見送った夏野が、苦笑しながら真琴と春に教えてくれる。
「柚葉の父は忍びの長なんだが、随分昔から皆に”鬼”と呼ばれていて、今では本名を知る者の方が少ない。推して知るべし、といったところだ」
「……だとしても騒ぎ過ぎだろう、那央もあんたも。忍びって騒がしくないと出来ない仕事なのか?」
呆れた様子で柚葉を見やる春。
だがその失礼な言葉に、柚葉が気を悪くした様子は見えず、逆に満面の笑みを浮かべていた。
「案外そうかも。さすがに任務中は静かにしてるからね、私達も。その反動で普段は羽目を外しがちかもしれない。……でもね、春」
「? ……痛っ!」
春が悲鳴を上げたのは、柚葉が突然両手で春の頬をつねり上げたからだ。
「私と那央を一括りなんかにするとこうなるって、よく覚えときなさい」
顔は笑顔のままなのに、その力は見た目以上に強いらしい。
春はその手を振り払えない様でじたばたしている。
そんな春と、それを見て大いに狼狽える真琴を見比べて夏野は苦笑した。
「その辺にしてやってくれ。真琴の方が倒れそうだ」
意外にも、柚葉はすんなりと手を放した。
「真琴を困らせちゃ可哀そうだもの。命拾いしたわね、春」
「……二度と僕の前に現れるな」
子供らしからぬ迫力のある目つきで睨みつける。
並のの人間なら臆しそうなものだが、柚葉は動じていないようだった。
「そんな訳には行きません。だって私、真琴と春のお世話係になったんだもん……よろしくね、二人とも」
「よ、よろしくお願いします。お世話になります」
「世話係なんて必要ない」
「遠慮しないで何でも言ってね。場合によってはさっきみたいなことになるけど」
「……最悪だ」
まあまあ、と夏野が春の肩を叩く。
「如何に俺が出来た人間だったか分かってもらえただろう?」
「確かに、あんたの方がまだましに思えてきた」
「でも残念でした、ここでは夏野は結構忙しいの。だから私で我慢しなさいな」
夏野は少し首を傾げて視線を柚葉に向けた。
「柚葉の方はそれで大丈夫なのか? 今回はあくまで俺が個人的に受けた仕事だからな。お前に迷惑をかける訳には」
「大丈夫大丈夫、全然迷惑なんかじゃないから。だからいつまでも子ども扱いしないで、那央だけじゃなくて私のことも頼りにしてよ。……私だってさ、夏野の役に立ちたいんだから」
真琴の耳に聞こえた柚葉の最後の言葉は、少し口籠るようで。
不思議に思って見上げれば、柚葉は夏野の視線から逃れるように横を向いていた。
若干不貞腐れているようにも見える横顔。
だが夏野の次の言葉で、その顔は一変した。
「俺は那央も、もちろん柚葉も頼りにしてるよ。二人がいるから、俺はこうしてあれこれ好き勝手できてるんだ。心から感謝してるよ。ありがとうな、柚葉」
「……うん」
本当に嬉しそうに、照れくさそうに夏野に向けられた笑顔。
ああ、と真琴は心中で呟いた。
その手の話はよく分からないはずだったのに。
柚葉の顔を見て、疑いようもなく感じてしまった。
彼女は夏野のことが好きなのだ、と。
那央のことは気付けないのに、柚葉の気持ちはすんなりと理解できた。
この二人の違いは何なのだろうか。
「真琴?」
春に呼ばれて我に返る。
「大丈夫? 疲れたんじゃないの、この馬鹿騒ぎに?」
「ち、違うから。そんな言い方……」
「ああ、でも確かに休んでっていう割に付き合わせちゃったよね。私もそろそろ帰ろうかな。那央の様子も見に行ってやらないといけないしね」
「そうか。長によろしくな。近いうちに挨拶に行くと伝えてくれ」
「了解。……あと、夏野」
「何だ?」
「お寺にも顔出してね。……すごく心配してたから」
不意打ちをくらったように、夏野が言葉を失った。
目を瞠って、そして自分を落ち着かせるかのように数回瞬きを繰り返した。
「分かったよ。……ありがとう」
***
その夜。
お社にいた時以来の一人きりの部屋に、真琴は居心地の悪さを感じていた。
疲れているはずだし、ちゃんと夕飯もいただいて満腹でもあるのに。
暗闇の中で何度も寝返りを打つが、逆に目が冴えていく。
夏野は真琴と春が部屋に入るのを見届けると何処かへ行ってしまった。
恐らく久しぶりの父親とはまだ話すこともあるのだろう。
あれから大分時間が経った気がするが、まだ戻ってきていないようだった。
襖の向こう、春の部屋からは物音ひとつしない。
体調も良くなさそうだし、もう眠ってしまったのかもしれない。
仰向けになってそっと息を吐く。
成り行きでここまで夏野に着いてきてしまったけれど。
真白との記憶が戻った今、真白を探すという目的は無くなってしまったのだ。
となれば後はもう一つ、追手から逃げ切るという目的だけ。
それはわざわざ夏野の手を借りて行うことではないのじゃないだろうか。
この国で重要な任務を担っている夏野に、これ以上無関係な厄介事は背負わせられない。
じゃあ、そう思っているのにどうして自分は今ここにいるんだろう。
-まさか本気であいつのこと、好きになっちゃった?-
ふと春の言葉を思い出し、慌ててきつく目を閉じた。
-私が、夏野さんを好き?-
でも、今の自分は知っている。
どんなに真白が夏野を好きであったか。
どんなに想って、どんなに辛くて、どんなに消えたくなかったか。
だからきっと違う。
これは自分の気持ちじゃない。
「真白の、だよ……」
闇の中で自分の声が囁いた。
閉じた瞼が熱を持っている。
そっと開けると、その拍子に目尻に溜まっていた涙が落ちた。
「真琴」
「!! ……春?」
突然隣から声がして、息が止まるほど驚いた。
「……眠れないの?」
「あ、ご、ごめん。起こしちゃった?」
「もともと起きてたから。あのさ、よかったらここ開けてもいい?」
「うん、いいよ」
春が襖を開けるまでの短い間に、手の甲で乱暴に涙を拭う。
開いた襖に手をかけた春は真琴を見て、少し悪戯めいた笑みを浮かべた。
そして無言のまま背を向けると、自分の布団を部屋のぎりぎりまで引き寄せた。
「……春?」
「真琴もさ、こっちにおいでよ」
「う、ん」
訳も分からぬまま、言われた通りに布団を寄せる。
敷居を挟んですぐ傍に二組の布団が並ぶと、満足したように春が頷いた。
「これで寂しくないよね、僕も真琴も」
「……うん、そうだね。ありがとう」
春は気を遣ってくれたのだ。
気づいてまた泣きそうになり、真琴は急いで布団の中に潜り込んだ。
そうして自分を落ち着かせてからそっと顔を出すと、目の前に春の手が、そしてその向こうにこちらを見つめる春の顔があった。
少し迷って、自分の手を伸ばす。
敷居の上で重なる二人の手。
柔らかく冷たい春の手にどこか安心して、真琴は目を閉じた。




