第三章 第六話
宿から外に出た真琴は、余人の出入りの邪魔にならぬよう横に逸れた。
そして堪えきれぬようにしゃがみこみ、抱えた膝に顔を押し付けた。
後に続いた春も無言でその隣に立つ。
長い間、沈黙が続く。
辺りの景色が段々と色を失っていく。
もうすぐ夜が来ようとしていた。
かつて真琴が唯一存在を認められた、夜が。
「……春」
「何?」
「馬鹿みたいなこと、言うけど」
「うん」
「今の私って、本当に真琴なのかな」
「何言ってるんだよ、今更。他人が疑うならともかく、自分で自分を疑ってどうするの?」
「だって、自分の心が分からないの。真白は夏野さんのことが好きだった。それは春も知ってるでしょう?」
「……まあね。信じたくはないけど」
「私、夏野さんといると心があったかくなるの。それが何でなのかずっと分からなかった。……でも、さっき夏野さんの姿を見たら泣きたい位に嬉しくて、離れたくないって思って……同時にすごく怖くなった。これは本当に私の心なのかなって。もしかしたら、真白の思いなんじゃないかって思うと、とても苦しい」
「真白の思いが、邪魔ってこと?」
「そんな訳ないじゃない!」
顔を上げた真琴は泣き顔だった。
「真白の思いがまだ残ってるなら、この体を真白に渡したい。力も何も無い私より、真白がいる方がずっと皆の役に立てるでしょう? 夏野さんのことだってちゃんと救ってあげられるはずだから。……だから、もし知っているなら教えて欲しいの、真白と替わる方法を」
春は目を瞠って、動きを止めた。
真琴の顔を凝視する。
「……本気で言ってるの?」
「本気だよ。皆に喜んでもらえるなら、私、自分が消えても構わない。……春だってその方がいいはずだよ。今更隠さなくっていいから」
「…………」
だって、春のことも思い出したのだ。
その眼差しがどれ程強く真白を見つめていたか。
その口元がどれ程優しく真白に笑いかけていたか。
真白を通じてずっと見ていたから-。
顔を上げてそう続けようとした真琴は、視界に映った春の表情に言葉を飲み込んだ。
今までに見たことの無い、酷く傷ついた顔。
その顔がふいと逸らされ、背を向ける。
「方法は無い。真白は決して戻らないし、今残っている真白の思いは……僕がどうこうしなくても、いつか必ず風化して消えて行く。だから最後に残るのは真琴なんだよ。真琴がどう思おうと、僕は真琴を守る。それは真白と約束したからだけじゃなく、僕が守りたかったからだ。でも今の真琴は……僕が守りたかった真琴じゃない」
押し殺した春の声は微かに震えていた。
ひどく怒って、ひどく悲しんでいるのが分かった。
真琴は胸が締め付けられたが、それでも何を答えるべきかは分からなかった。
互いに言葉が無いまま、時間が過ぎ。
結局、春が独り言のように呟いた。
「いつまでも外にいるとあの二人が心配する。そろそろ戻った方がいい」
「……うん」
同じように小さく呟いて、真琴は空を見上げた。
かつて自分を温かく照らしてくれたはずの月が、今夜はとても遠く見えた。
***
翌朝、一行は夏野と那央の生国に向けて出立した。
しばらく辛抱していた那央であったが、その内いたたまれなくなって音を上げた。
「ちょっといい加減勘弁してくれよ。いつまでそうしてるんだよ、二人とも」
「何でもありません」
「……僕に話しかけるな」
昨日部屋に戻ってからの二人は、傍から見ても分かりやすく不自然な距離を取っていた。
春はいつもの不愛想が若干増した程度だが、真琴の方に明らかに元気が無い。
那央との約束を思い出したのか、真琴はこれまでの旅程を語ってくれたのだが。
時折取り繕ったように笑顔を見せるのが、逆にいたたまれなかった。
それでも一晩立てば元に戻るだろうと高を括っていたけれど、今もって全くその気配は無い。
那央は困り果てて溜息をついた。
「夏、何とかしろよ。得意だろ、こういうの」
「どんなのだよ、勝手に決めるな」
頭上を飛ぶ疾風を見上げながら、夏野は苦笑した。
そして春に視線を移す。
「たまには喧嘩すること位あるだろう。子供ならなおさらだ」
春がこれ以上ない程に眉を顰めた。
「子供じゃない」
「そうか、それはすまなかった。では、子供でない春ならば感情と責任は別だと分かるだろう。どんな感情を抱いていてもいいが、お前が果たすべきことは守り通せ」
真琴を守ることを放棄するなと、言外に含められているのがよく分かる。
春は切り捨てるように短く言った。
「……無論だ」
夏野は感心したように声を上げた。
「そうか、偉いな。俺はこの年になってもそれが上手く出来ない。それでこんな怪我を負ってしまった訳だが、春なら安心だな」
「油断してるからだろ」
「そうだな。那央が来なけりゃ、本当にどうなっていたことか。……だから俺も那央を見習って、お前達に何かあった時には恰好良く助けに行くよ。約束しよう」
「……あんた馬鹿だな、本当に」
いつも通り笑う夏野に、春の表情も幾分和らいだようだ。
そんな二人のやりとりを後ろから眺め、那央も自然と口元が綻んだ。
ああ言っておきながら夏はやっぱり得意なんじゃないか、と思う。
今の夏野には昨日の、あの我を忘れた表情は一片も窺えなかった。
また無理をして自分を抑えているのかもしれないが、逆に言えば抑えられる程度には落ち着いたということだろう。
那央は人知れず胸を撫でおろした。
ただ、心配が尽きた訳では無い。
そしてこちらは、如何に夏野でも難しいのかもしれない。
そう考えて傍らの真琴に視線を移す。
「大丈夫か、疲れてない?」
「大丈夫です」
答えるその声は明るいけれど、ふと気を抜くとすぐに会話が途切れてしまう。
これまでの真琴ならば、楽しそうによく喋ってくれていたのに。
太陽の光を受けた街道沿いの木々の枝葉は、真琴の顔に影を落としては消えた。
それがまるで彼女自身の心の内を映しているように感じられ、那央は為す術無い自分をもどかしく思った。
「あの、さ」
「はい?」
「何も力になれなくってすまない。でも俺達は真琴のこと、信じてるからな」
「……!!」
予想以上に驚いた反応を見せた真琴に、那央は面食らった。
「あ、いや、その……昨日、夏が言ってたんだ。真琴のこと信じたいって」
「夏野さんが?」
「うん。俺も考えたら、やっぱり夏と一緒だ。真琴には今、とんでもなく重大な悩みがあるんだろうけど、夏も俺も、真琴が出す答えを信じる」
ああそうだ、と真琴は思い出した。
出会ってすぐ、夏野は言っていたではないか。
-それ程強く心配してくれるのなら、何があっても春はきっと信じられる-
それなのに忘れたのは自分だ。
大事な春を疑って、傷つけた。
あんなに心配してもらったのに、その手を振り払ったのは自分だ。
前を行く春の背は、歩き出してから一度もこちらを振り返らない。
もう、元には戻れないかもしれない。
それでも仕方ないくらいのことをしてしまった。
泣き出しそうになるのを精一杯堪える。
強く握った両の拳が、小刻みに震える。
「春だってきっと同じはずだよ。だから、じっくり考えればいい。……国に着けば、今よりずっと落ち着いて考えられる。真琴がきっと気に入るような場所も沢山あるんだ。案内するよ。だから楽しみにしてて」
「ありがとう、那央さん。すごく嬉しいです。…心配かけて、ごめんなさい」
「……お、おう」
溜まった涙で揺れる目に見つめられる。
内心大いに動揺した那央だが、何とかそれを飲み込んで笑ってみせた。




