第三章 第五話
山中を駆け抜ける夏野と那央。
その足を止めぬまま、夏野は失血の止まらぬ左腕に手拭いを巻き付けた。
血の跡を辿られるのを防がなくてはならない。
他の数か所の傷はそこまででは無かったが、この傷だけは少々深手になってしまった。
「大丈夫か、夏」
横に並ぶ那央が心配そうに声を掛ける。
「ああ、大したことはない。でも、あと少し深く入れば筋をやられていたな」
「怪我の話じゃない」
「……?」
「顔色も目つきも最悪だ。そんなんで戻ったら、真琴が心配するぞ」
「……そうか」
夏野は困ったように小さく笑った。
少し前に二人を見つけ、息を殺して機を窺っていた那央も二人の会話は聞いていた。
だからこの顔の原因は十分に分かっている。
夏野は一番突かれたくない所を突かれたのだ。
「俺もまだまだ未熟だな。受け流せばいいものを、つい本気になり追い込まれた。那央がいい所で来てくれて助かったよ。すまなかった」
「あ、やっぱり? さすが俺だよな。さっきの、相当格好良かったと自分でも思ってるんだ」
「そうだな」
お道化てみせる那央に、今度は夏野も声を出して笑う。
それを見た那央はようやく安心した。
実際には先程の那央の言動は、本音と虚勢が半々と言ったところだ。
あの男の技量は決して侮れるものではなかった。
上手く策がはまったのは、夏野が崩れたことにあの男も油断したからに他ならない。
それでも。夏野をこちらに引き戻すためにも、怯むわけには行かなかった。
「俺は、夏があの場で本気で怒る人間だから傍にいたいと思うんだよ。あそこで真琴や弟を切り捨てるような奴は、夏じゃない。……でもさ、時々心配になるんだ。夏、一人で全部抱え込んで壊れちゃうんじゃないかって。だからさ、辛い時は助けを呼べよ。俺達も親父殿も、ちゃんと傍にいるから」
「那央……」
驚いた顔で那央を見つめて、そして夏野はもう一度笑った。
いつもの柔らかな笑顔だった。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
***
那央の指示で、街道まであと少しという林の中で二人を待っていた真琴と春。
その傍らでは、那央の意を汲んだ疾風が見張りをしている。
真琴は夏野の帰還に涙し、その腕や足の怪我に息を呑んだ。
「本当に大丈夫なんですか、夏野さん」
「ああ、本当に大丈夫だ。致命傷は一つも無いから。……心配かけてすまなかったな、真琴。春も、よく真琴を守ってくれた」
青ざめて呆然と立ち尽くしていた真琴は、我に返ったような表情で首を横に振った。
そしてぎこちなく笑う。
「いえ、ご無事で良かったです」
対してその隣の春は、不機嫌そうに顔を背けた。
「別にあんたに言われたからじゃない。真琴を守るのは元より僕の役目だ」
「嘘。違います…春は私に、夏野さんはきっと追いつくって言ってたから信じろって言ってくれたでしょう。夏野さんの名前もちゃんと呼んでたし」
「ほう」
「ちょっと、真琴! 何言ってるんだよ!」
「だって……」
那央は手を叩いて二人を止めた。
「そこまで。とりあえず致命傷ではなくても怪我は怪我だから。今日はこの先の宿に泊まろう。で、夏野は早く怪我を直すこと。春はもっと素直になること。真琴は……」
「僕に命令するな」
「私は、どうしたらいいですか?」
面白そうに夏野が皆を眺めている。
勢いに任せて言った那央だが、そこではたと困って考えこんだ。
そして自分で思いついた答えに、照れた表情で言った。
「じゃあ、もし良かったら、俺がいなかった間の話を聞かせてもらおうかな。真琴の話が、聞きたい」
「あ……はい!」
「何なんだよ、それ」
「いいじゃないか。悔しかったら春も入れてもらえ」
「悔しくない! あんたも何だよ、せっかく心配してやったのに」
「それは嬉しいな。あとは名を呼んでもらえれば完璧だ」
「調子に乗るな!」
むきになる春にって、夏野は背後を振り返った。
さすがにここまであの男が追いかけてくる気配は無い。
那央の放った毒針も時間的にまだ効いているはずだし、それを押してまで自分に拘る必要も無いだろう。ただし。
-しばらくこの国には近づけないか-
鹿島との約束は果たせないがやむを得ない。
いつかどこかで再び相まみえることがあれば、正体を偽ったことを謝りたい。
その場は今度こそ、殺し合いの場になるかもしれないけれど。
「夏、どうした?」
歩き出した自分たちの後についてこない夏野に、那央が声を掛けた。
「……ああ、何でもない。行こう」
***
宿に着いたのは夕刻。
既に陽は大きく傾いていたが、完全に落ちる前に辿り着けて良かった。
これまでずっと三人分の宿代を払っていた夏野の所持金は尽きかけていた。
しかし那央が国で追加の資金を調達してきてくれたお陰で、無事四人で宿に宿泊することができた。
部屋に落ち着いて、夏野の懐具合を聞いた那央は呆れて声をあげた。
「俺が来なかったら、本当にどうするつもりだったんだよ」
「そりゃ勿論、何でもいいから働くつもりだったさ」
宿でもらった手拭いを腕の傷に巻きながら、夏野は平然と言い放った。
「……で、また雇い主に気に入られちゃうんだろ。そうなると長いんだよ、夏は」
手際が良くて愛想もいい。
そんな夏野は確かに雇い主に好まれることが多かった。
結局本来の目的を果たした後もそこから抜けられず国に帰らない。そうして親父殿が溜息をつく。
那央はこれまでに何度もそんな場面を見てきた。
「俺はもともと侍でも無いしな。そういう生き方が向いてるんだろう、きっと」
「それはそうかもしれないけど」
「いつか親父殿に見限られたら、どこか遠くでそうやって生きたいもんだな」
横で黙って聞いていた真琴が、あの、と口を挟んだ。
「もしいつか、そんな機会があったら……私もそこで一緒に働かせてもらえませんか」
夏野と那央は驚いて真琴を見た。
だが二人の驚きの理由はそれぞれ異なる。
那央は単純に真琴が真白を探して連れ戻すために旅をしていると思っているから。
「真琴にはもっと大事なことがあるんだろう? 俺達、そのために協力するよ。国で真琴と春の事情も話してきて、親父殿の……俺達の頭のお許しも出たんだ。これからのことは心配しなくていい」
「ありがとうございます」
笑顔で応えたものの、那央の視線から逃げるように、真琴はそっとその目を伏せた。
対する夏野は、那央とは違う思いで驚いていた。
あの忍びに襲撃されたために途中となってしまった真琴の話。
真琴は思い出したと言っていたのだ、真白と自分の存在について。
そしてもし本当に全て思い出したのならば。
既にあの村のどこにも、自分の居場所が無いことも分かっているはずだ。
「真琴」
夏野が呼びかけると、真琴が弾かれたように顔を上げた。
重なる視線に、真琴の黒い瞳が揺れる。
そして夏野が言葉を続けるより早く、その場に立ち上がった。
「あ……あのっ。私、少しだけ近くを散歩してきます」
「今から? もう暗くなり始めてる、危ないよ」
慌てた那央の言葉に首を振る。
「大丈夫です、すぐ戻るから。……春が、一緒に来てくれますから」
「…………」
春は驚いた様子もなく、無言で立ち上がった。
こうなることが分かっていたようだった。
「分かった。何かあったらすぐ俺達を呼べ」
「夏、いいのか?」
「春が一緒なら安心だ。……何があっても守るんだろう?」
真琴に続いて部屋を出ようとした春が振り返る。
「当然だ。僕はそのためにいる」
二人が出て行ってまもなく。
那央は落ち着きなく夏野の周りを歩き出した。
「少し落ち着け」
「いや、だって心配だろ。夏はどうしてそんなに冷静なんだよ。いつもは人一倍心配するくせに」
那央は窓から身を乗り出して外を見下ろした。
だが生憎、見える範囲に二人はいないらしい。
「俺か? ……俺は」
先程、彼女の目を見た時。
夏野は一瞬、あの戦場で会った真白の目を思い出した。
自分に会いたかったと言った、あの目によく似ている気がした。
今あの体の中にいるのは本当に真琴なのだろうか、それとも-。
春の言っていた言葉が蘇る。
-お前が真琴と出会い、手助けする行く末が視えた。……そしてお前に惹かれた-
だが、もしもあの目が真白のものなのだとしたら、真琴は一体どこだ。
彼女の気持ちは、彼女の居場所はどこにあるのか。
何も知らず、故にいつも目を輝かせて笑っていた真琴はどこで生きて行けばいいのか。
考えた末に、夏野はぽつりと呟いた。
「……俺は、信じてやりたいんだ。真琴を」




