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第二章 第五話

 那央と別れて目指す城下町までは、順調に見ても五日はかかる長旅であった。

 さすがに真琴と春にそこまで無理をさせる訳にもいかなかったのだ。


 出会った時以来の三人での旅。

 初めは夏野を兄と呼ぶ度に照れていた真琴だが、次第に慣れたらしい。

 嬉しそうに目に映る物を尋ね、夏野の傍を歩く。

 夏野がそのひとつひとつに返事を返し、春が時々呆れたように割り込んでくる。

 歩き疲れて夜にはぐっすり眠り、また翌朝には眠気を抑えて歩き出す。

 そんな束の間の、穏やかな時間が流れていった。




「何だか、不思議な匂いがしませんか?」


 足を止め、真琴が首を傾げたのは四日目のこと。

 このまま行けば翌日には目的地である町に辿り着ける、そんな距離だった。


「そうか?」


 夏野も足を止め、何度か鼻をすってみる。


 -海が近いから磯の匂いはするが、その他は特に-


 そう思って、はたと気付く。


「……海か。真琴は海を見たことが無いんだな?」

「え? あ、はい。聞いたことはあるんですけど」


 村の中に川はあった。

 その川は遥か遠くまで流れ着き、いつか広く大きな海に届くのだと。

 かつて誰かがそう教えてくれた気がする。

 だが、幾ら想像してもよく分からなかった。

 教えてくれた誰かのことも、海の広さも。


 そう言うと、夏野は笑って頷いた。


「少しだけ道を外れるが、せっかくだ。海を見て行こう」



 街道を逸れ、背の高い草木をかき分ける。

 前が良く見えないので、前を行く夏野の背を頼りに進んだ。

 後ろの春が小声で文句を言っているのが聞こえて、何だかおかしい。



 しばらく歩いて、夏野は嬉しそうに真琴を呼んだ。

 そして、彼女の視界の妨げとなっていた自分の体を、一歩横にずらす。

 突如目の前に広がった光景を目にした真琴は、息を呑んだ。


 本物の海は、真琴の想像を遥かに上回っていた。


 遠く、空の端に届くまで続く青色の海。

 陽の光を反射した水面はあちこちで眩い程に輝き。

 浜辺に立った真琴の足元近くまで、波が押し寄せては引いていく。

 その音はとても心地よく真琴の耳に響いた。


「すごい……すごいです、海」


 呆然と立ち尽くす真琴。

 あまりにも雄大で美しい光景に、心が震える。


「俺は海を前にすると自分がいかに小さい存在か思い知るような気がするよ」

「……とても分かる気がします」

「春はどうだ? というか、お前はそもそも海を知ってたのか?」


 夏野が振り返ると、春は少し後ろで太い流木に腰かけていた。


「海くらい知ってる。いくら海が広かろうと、僕は僕だ。あんたみたいに卑屈になる理由は何も無い」

「お前らしい答えだな」

「納得してもらえればいいよ。気が済んだら早く」


 行こう、と恐らく言おうとしたであろう春。

 だがその言葉は最後まで続けられなかった。

 駆け寄った真琴が春の手を取り、強く引いたから。


「ま、真琴? どうしたの?」

「いいから、早く」


 引きずられるようにして波打ち際まで歩く。

 夏野も驚いて二人を眺めている。


「一緒に見よう。すごく綺麗だから、春と一緒に見たいよ」

「え?」

「春、いつも自分はいいって言うけど。一人じゃ寂しいでしょ、私も……春も。同じ景色でも、二人で見た方がきっと、ずっと楽しいよ」

「…………」


 春は目を瞠った。

 かつて同じようなことを、真白に言われたから。

 だから記憶が戻ったのかと思った。

 いや、目の前にいるのが真白なのではないかという錯覚さえ感じた。


 その時だった。


「おい、後ろ。波が来るぞ!」

「えっ……わぁっ!!」


 夏野の声はあと少し間に合わず、ひと際大きな波が打ち寄せた。

 足元まで届いた波に驚いて、思わず体勢を崩しかけた真琴。

 慌てて春が手を引き何とか持ち堪えたものの、着物の膝辺りまでが濡れてしまった。


「大丈夫?」


 数回目を瞬かせた真琴は、一拍おいて弾けたように笑いだした。


「うん、大丈夫。春は?」

「僕は何にも」

「よかった! でも気持ちいいよ、海の水。春もやってみる?」

「嫌だよ、そんなの」


 大袈裟に顔を顰めて答えて見せる。

 そんな春の答えにも楽しそうに笑う真琴。

 その笑顔に根負けして、思わず春も笑ってしまう。


「やっと笑ったね」

「……?」

「お社を出てから、春あんまり笑ってなかったから心配してたんだ」

「……もともと僕はそんなに笑ってなかっただろう」

「うん、でもやっぱりあそこにいた時とは違うよ。私は少し自由になれた気がして舞い上がってたけど、春はずっと気が抜けなくて大変だったよね。ごめんね……ありがとう」


 春はすぐに言葉を返せなかった。


 こんな風に大きな口を開けて楽しそうに笑うのは真白じゃない。

 さっき何故、真白と間違えたのか自分でももう分からない。

 彼女は間違いなく真琴だ。

 うっかり者で、人の話をちゃんと聞かないし、質問ばかりするし、自分勝手で、向こう見ず。


 だけど。

 こうしてずっと自分を心配して、そして笑って手を差し伸べてくれる。

 真白と同じように優しくて、真白と全然違う太陽みたいな真琴。


 ーずっと一緒にいられたら、本当に楽しいんだろうな-


 真琴の笑顔を前にして、ふとそんな思いが胸を過ぎり、そう思った自分自身に戸惑う。


 真白に頼まれたから、真白がそう望んだから。

 だから真琴を助けると決意したはずなのに。

 真琴じゃ真白の代わりにならないと、あんなに絶望したはずなのに。

 自分は今、何を考えていた?

 

「どうしたの、春?」

「……何でもないよ」


 春は慌てて首を振った。

 それ以上は怖くて、考えるのをやめた。


 後ろで二人を見守っていた夏野が、頃合いだとみて声を掛ける。


「この天気だ、真琴の足元もすぐに乾くだろう。貴重な春の笑顔も見れたことだし、そろそろ行くか」

「なっ、何だよ! 勝手にこっちを見るな!」

「お前を見るのに許可がいるのか。人気者は大変だな」

「そういう意味じゃ」


 反論しようとした時、つないだままだった手をもう一度強く引かれた。

 振り返れば、そこにはやはり明るい笑顔がある。


「行こう、春」

「……うん」


 ***


「何度もしつこくてすまないが、本当に追手はかかっているんだよな?」


 その夜。

 連日と同じく歩き疲れて深い眠りに落ちた真琴。

 朝まで目覚めそうにもない寝姿を眺め、夏野は小さく尋ねた。


「ああ。そう簡単には諦めないはずだから。初めの段階で時間稼ぎは出来ただろうけど、それでも見つからないとなれば、人を雇ってでも探し続けるよ。……新たな巫女が生まれるまでは、ずっと」

「しかし真琴は、自分は真白では無いと告白したはずだ。真白はどこかに消えたと。今の彼女を連れ戻しても、巫女としての力は望めないと思わないのか?」


 春はゆっくりと夏野に視線を向けた。

 心許ない部屋の明かり受け、その目は暗く鈍い光を放っている。


「あいつらは、真琴を連れ戻すつもりなんかない。()()()()()()()()()()()()()()

「……何故だ?」

「真白はずっと、真琴を眠らせてその存在を隠してきた。あいつらは、今回も同じことが行われていると思っている。真白は真琴の中に隠れているだけ。真琴を殺すと脅せば……いや、むしろいっそのこと殺してしまえば、真白は出て来ざるを得ないんじゃないか、とね」


 思わず夏野は真琴を見つめた。

 先程と変わらず、小さく寝息を立てて幸せそうに眠っている。


「馬鹿げた話だ。それで二人とも死ぬとは考えないのか? ……いや、そもそも神に仕える者がそんな考えに辿り着くなんて」

「信じられないか? でも僕は実際にやつらがそう話してるのを聞いたよ。……あんたはあの村を支配している狂気を何も知らない。あいつらにとって巫女は崇める存在じゃない。村を存続させるために絶対に必要な生贄なんだよ」


 とりわけ力の強い巫女は、より一層生贄としての価値が高まる。

 是非とも取り戻したいし、そのためならば片割れの命など惜しむ意味も無いと。


「……反吐が出る程、浅ましいな」

「だから言っただろう。あんな社は、守る必要が無いって」


 夏野は拳を握りしめた。

 戦場で軽んじられる命を、消え行く命を悼んでいた真琴の姿が蘇る。


「……真琴は、自分の命が狙われていると分かっているのか?」


 無言で首を振る春。


 そんな恐怖を感じずに生きて行って欲しい。

 それが真白の願いであったし、きっと今は自分もー。


「真琴に知られずに済むのなら、僕は何でもする。そのために邪魔になるのならば、あんたであろうと誰であろうと、排除するだけだ」

「…………」


 春の揺るぎない覚悟を受け止める。

 やはり春は真琴にとって絶対に信じられる仲間だ。

 そう思って、夏野はやはり笑った。


「ああ、それで構わない」

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